今日の産経ニュース(2022年2/8日分)

経済安保法準備室長を更迭 後任に財務出身の泉氏 - 産経ニュース
 「懲戒処分に該当する疑いのある行為が発覚」というならそれが「パワハラやセクハラ」「業者からの過剰接待(収賄や国家公務員倫理法違反の疑い)」などのうち何か説明してしかるべきです。
 結局

「経済安保法準備室長」という岸田政権にとっての重要ポストのままで不祥事が発覚しては困るから更迭する。しかし更迭した後はどうでもいい(むしろ処分するとかえって騒がれる)

ということでまともに懲戒処分する気が無いんじゃないか。なお、更迭後のポストが仮に「閑職(窓際)」だとしても現時点ではこれは建前上は「ただの人事異動」で懲戒ではありません。「ほとぼりが冷めた後で復権」が可能性としてあり得る。
【追記】
 報道に寄れば「無届けでの勉強会講師で講演料受領の疑い(講演料を受領する場合は、届けを出して許可を得る必要がある)」とのこと。


【主張】小林の金1号 祝福の姿に新時代をみる - 産経ニュース

 前回平昌冬季五輪のスピードスケート女子500メートルでは、優勝した小平奈緒が五輪3連覇を逃して涙を流す韓国の李相花を抱きとめ、2人で互いの国旗を手にしてリンクを回った。

 嫌韓国ウヨのくせによくもこんな文章が書けたもんです。

 小林が金メダルを獲得した同じ6日、アイスホッケー女子の日本対中国の試合では場内を盛り上げるBGMとして「保衛黄河」という抗日歌が流れた。
 これを報じた中国のニュースサイトの網易はBGMが「中国チームに声援を送った」と肯定的に伝えた。「保衛黄河」は1930年代の曲で、日本軍から黄河周辺の地域を防衛しようと呼び掛ける内容で知られる。

 で悪口雑言する産経です。勿論「続報」を見ないと何ともいえませんが、これは「日本のパチンコ屋での軍艦マーチ」のような代物に過ぎないのではないか。つまり「もはや政治性はほとんどない」のではないか。

参考

軍艦行進曲 - Wikipedia
・戦後から長らくパチンコ店の定番BGMとして使われている。
・映画監督の古澤憲吾*1は「古澤といえば軍艦マーチ」と言われるほどこの曲を好み、数多くの作品で挿入曲として使用している。そのため、クレージー映画で共に仕事をした脚本家の笠原良三から「そんなにパチンコが好きなのか?」とからかわれたという。


【主張】教員不足 優秀な人材集まる環境に - 産経ニュース
 「教員免許更新制度」という「教員不足を助長する安倍の愚策」を支持した分際で良くもこんなことがいえたもんです。

 運動部の顧問のなり手がいないという現状も情けない。部活指導者の外部委託などを進めるというが、学力も学校より塾が頼りにされている。何から何まで「外注」で学校はいったい何をするのか。教職は人を育て、やりがいがあり、かけがえのない仕事であると、学校、教員の魅力を増す発信こそ求められる。

 おいおいですね。「運動部(例えば野球部)の顧問」が「運動に興味関心のある教師」が就任して、好成績をあげ、また顧問としての活動に学校などからそれなりの「費用負担がされる」のならいい。
 実際には「他になり手がいないから仕方なく、なった。運動(例えば野球)に興味も無ければ指導能力も無い。費用を、学校もPTAも負担してくれず顧問となった教師の個人負担」なんて状況が多いと聞きます。
 それでいいわけがないし、そんなことを放置したら、それこそ「教師不足の助長」です。
 「教職は人を育て、やりがいがあり、かけがえのない仕事である」などという「空虚な精神論のアピール」で何が解決するのか。
 例えば「新聞記者は社会問題を取り上げる偉大な仕事」と精神論を言えば「産経の安月給」でも社員は満足するのか。

*1:1919~1997年。1962年(昭和37年)、クレージー映画『ニッポン無責任時代』が大ヒットを収め、以降、クレージー映画を多数手掛けるほか、若大将シリーズをはじめとする娯楽映画を手がけた。東京裁判に異議を唱える右翼的な立場から日本の近現代史を描く『アジアの嵐(仮題)』の企画を東宝に提出し続けていたが、政治的話題を嫌う東宝の社風に阻まれて実現することはなかった。「原節子はおれに惚れていた」などと怪しいことを吹聴したり、常に全身黒ずくめだった岡本喜八に対抗してか、上下真っ白なスーツに帽子、靴下に靴まで白づくめで現場に立つなど、奇人として知られた。「パレンバン降下作戦の勇士だった」と自称していたことから、「パレさん」の愛称で親しまれた。ただし、古澤が航空部隊に入隊したのは「パレンバン襲撃」の後であり、松林宗恵監督は「あれはでまかせ」と述べている。「日の丸の赤い色」が大好きで、自作映画のタイトルの色にもこだわり、納得のいく「日の丸の赤色」にするため現像所にまで押し掛けた。このため、現像所では古澤のイメージするこの赤色を「パレ赤」と呼んでいた。古澤の作品のラストが必ず「パレ赤」のタイトルが出て終わるのもこうした古澤のこだわりだった。植木等が後に語ったところによると、古澤作品に初参加の藤岡琢也に、古澤は、「藤岡君、私はリアルを追求する監督だ」と言ったという。そこで藤岡が、植木に「本当なのか」と尋ねたところ、植木は「我々が考えるリアルとあの人が考えるリアルは、こんなにも違うのかと思うことになる」と答えたという。市川崑監督が東宝で喜劇を多く撮っていた頃に何度か助監督に付くことがあり、市川は後年、助監督時代の古澤について「麻雀が好きで、ロケに行くといつも誘いに来た」「用があって彼の下宿に寄ったら、六畳間くらいの小さな部屋で、一人でバイオリンを弾いていた。不思議な男ですよ」と語っている。晩年は、消火器販売や駐車場の管理人、建築現場の交通整理をして生計を立てていたという。共産党嫌いで知られた。共産党員である山本薩夫監督の邸にそれと知らずに消火器を売りに訪れ、慌てて踵を返したこともあったという。松林宗恵監督は、古澤について「あれはホントの右翼だったからね」と語っている(古澤憲吾 - Wikipedia参照)。