珍右翼・高世仁に悪口する(2022年12/6日分)(注:ベルヌ『八十日間世界一周』のネタバレがあります)

中村哲医師の「共に生きる」哲学 - 高世仁のジャーナルな日々
 珍右翼・高世仁に悪口する(2022年12/3日分) - bogus-simotukareのブログで批判した「倫理観の神髄」を見ながら民衆に分け入った中村医師 - 高世仁のジャーナルな日々の続きです。

 バダル(復讐法)については、中村さんはこう書いている。『天、共に在り*1』より引用。
 バダルとは、「目には目を、歯には歯を」で知られる報復である。危害を加える敵に対して、同様の報いを与えるもので、中世・近世日本の「仇討ち」に近い。
(略)
 誰の目にも理不尽な仕打ちの場合、「仇討ち」を賞賛する。例えば、悪徳有力者が弱い者を殺(あや)め、やられた側に成人男子がいない場合、母親がわが子を復讐要員として育てる。宴席に招いて毒殺という例もあった。数年後「めでたく」本懐を遂げると、人々は「あっぱれ」と賞賛する。現地の新聞は「少年による殺人事件」という記事に事欠かない。ほとんどが「仇討ち」で、人々は美談として受け取る向きが多い。

 これは江戸時代日本もそうですが、「アフガンが近代化してないから仇討ちが容認される」と言う面がないか。
 例えば江戸時代だと「藩領内(長州藩でも薩摩藩でもどこの藩でもいいですが)から領外に犯罪者が逃亡する」と藩は基本的に何もしてくれません。他藩に介入する権利がないからです。
 今の日本のように「警察庁」があって全国どこに逃げても基本的に犯罪追及が行われるシステムになってない。藩領外に逃げれば基本的に「御の字」になる(この辺りは時代小説、時代劇でもよくネタになるところです)。
 だから「藩は藩領外に逃げた犯罪者を追及しないが、遺族の仇討ちは認める」と言う形で「自己救済」に全てしてしまう。これは現在の目から見ればはっきり言って無責任です。当然ながら犯罪者を見つけ仇討ちできる可能性は高くないからです。多くの場合「返り討ちの危険」以前に「見つけることが困難」で、「犯罪者の逃げ得」になってしまう。この点はアフガンとて同じでしょう。そうそう仇討ちがたやすくできるとは思えない。

 いわゆる家庭内暴力や自殺も、人権思想が浸透しているはずの先進国で圧倒的に多い*2のは皮肉である。健全な倫理感覚と権利意識とは、案外反比例するのかもしれない。

 これを好意的に紹介する高世には呆れて二の句が告げませんね(このまま、刊行したNHK出版も出版倫理が疑われるのではないか?)。
 こうなると中村氏も「その業績(アフガンでの人道支援)はそれなりに評価すべき」でしょうが知名度の高い人がトンデモな主張をする場合、どっかの変な人物の主張をたれ流すというパターンがありそうだ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で批判されてる「本多勝一氏」「半藤一利」などと同類の「困った人間」ではないか。

 現地の人と長く付き合っていると、美点も欠点もコインの裏表のようなもので、気に入ったところだけを積み上げて愛するというわけにはいかない。いや、美点・欠点を判断する「ものさし」そのものが、自分の都合や好みで彩られていることが多い。「共に生きる」とは美醜・善悪・好き嫌い(ボーガス注:と言う評価)の彼岸にある本源的な人との関係だと私は思っている。

 この中村氏の一文を好意的に紹介する高世が「家族会」の「田中均氏、蓮池透氏敵視」「北朝鮮の外交交渉の事実上の否定」を容認してるのだから呆れます。
 「気に入らない」から「田中や蓮池を敵視する」「北朝鮮とは交渉なんかしない」がどれほど悲惨な「拉致敗戦」を生んだか。気に入ったところだけを積み上げて愛するというわけにはいかない。、(拉致被害者帰国は現実的には経済支援とのバーター取引以外に手がなく、北朝鮮に対する拉致被害者家族の)美醜・善悪・好き嫌い(ボーガス注:と言う評価)の彼岸にあるという主張はそれこそ高世が「家族会に向けてすべき主張」だったのではないか。
 とはいえ俺は「拉致敗戦」は「横田早紀江ら家族会の自業自得」と思ってるので、家族会が自らの暴挙を田中氏や蓮池氏に謝罪すればともかく、そうでない限り家族会に同情は一切しませんが。
 勿論(?)家族会の連中にはそんな謝罪をする器量はないでしょう。家族会のバカさには心底呆れます。

 異文化との共生、多様性の尊重・・流行り言葉のようにカジュアルに耳にするが、ほんとうに「共に生きる」には、自らの善悪の基準自体への問いかけまでもが必要なのだと気づかされる。

 そこまでいうなら「朝鮮学校」という「異文化」との共生、「多様性」の尊重を拒否し、無償化除外、補助金不支給などを正当化して恥じない自らの善悪の基準自体への問いかけを高世にはして欲しいもんです。
 まあ、「異文化との共生」「多様性の尊重」つうのもマジに考えると難しい面はあります。
 例えば「同性愛がイランやサウジで死刑対象となってること」をどう考えるか。勿論、人権擁護の観点で容認していいわけはないのですが、「そうした価値観が恐らく社会に根付いてること」を考えるとなかなか難しい面があるでしょう。下手に扱うと「外国(欧米など)の内政干渉」と相手側の反発が高まるだけになりかねない。
 つうか、こうした高世の物言いは「発展途上国に欧米の視点から早急に民主化を求めていいのか」「中国や北朝鮮ミャンマー、サウジ、イランなんかは漸進的改革しかないんじゃないか」つう話にもなりかねませんが、中国や北朝鮮に批判的な高世はその辺りどれほどまともに考えてるのか。「中村氏を礼賛したいだけ(そして、中村氏の遺族や『中村氏を創設者とするペシャワール会関係者』にこびたいだけで)」で何も考えてないんじゃないか。
 一方で救う会や家族会などのこびでしょうが、高世は北朝鮮に悪口する。
 高世の言動を見ていると「論理的整合性とか完全無視」で「取り入りたい人間や団体(横田早紀江や中村氏、中村氏を創設者とするペシャワール会など)」に取り入るために、その場で受けることだけを考えて、「心にもないおべっか」ばかり言ってるんだろうなと思って高世を心底軽蔑します。
 いや俺だって誰だって「本音だけでは生きられない」。当然社交辞令はありますが、それも程度問題でしょう。高世の態度は「太鼓持ち」「幇間」等と批判されて当然の態度であり、およそ「自称ジャーナリスト」の態度ではないでしょう。
【追記】
 コメント欄で名誉殺人についてご指摘頂きましたが、小生が名誉殺人の存在について初めて知ったのは多分、小学生の頃読んだ、ベルヌ『八十日間世界一周*3』(1983年、講談社・国際児童版「世界の名作」シリーズ第14巻*4)だったと思います。
 『八十日間世界一周』未読の方には意味不明でしょうが、どういうことかと言うと以下の通りです。ウィキペディアの紹介ですが、以下完全にネタバレがありますので、未読の方はご注意下さい。

八十日間世界一周 - Wikipedia参照(以下の引用は一部省略しています)
 1872年10月2日のロンドン。独身の紳士フィリアス・フォッグはロンドンの紳士クラブ「リフォーム・クラブ」のメンバーであること以外は全く謎で、裕福であることの理由も定かではなかった。
 リフォーム・クラブでフォッグは会員たちと新聞のある記事について議論をした。「イギリス領インド帝国に新たに鉄道が設けられた」という記事と、それに伴って80日で世界一周ができるという計算結果が載っており、フォッグはこれが実現可能なものであると主張する。
 フォッグはこれを立証するために自ら世界一周に出ることを宣言し、自分の全財産の半分にあたる20,000ポンドをクラブの会員たちとの賭け金にする。残りは旅費に充てるため、期限内に世界一周を果たせなかった場合、全財産を失うことになる。
 フォッグはスコットランド・ヤード(英国警察)の刑事フィックスにひそかに監視されていた。フィックスはイギリスの銀行で起きた強盗事件の犯人捜索に携わっていたが、フォッグの容貌が容疑者と似ていたこと、フォッグの経歴に謎が多いことから、彼を犯人と思い込んだのだった。
 フォッグとパスパルトゥー(フォッグの執事)は象でカルカッタに向かう途中、サティー(未亡人の女性が夫の後を追い殉死するインド古来の儀式)へ向かう行列に遭遇し、その中に翌朝儀式の生贄にされる若いインド人女性アウダを見出す。彼女は麻薬で意識が朦朧としており、また、現地のガイドによると、本人は殉死を望んでいないという。2人は彼女を救出する。
 フォッグ一行は香港に着くが、アウダの身柄を預けようとしていた彼女の遠戚が、すでに他の土地に移ってしまったことが明らかになり、フォッグはアウダをヨーロッパまで連れて行くことを決める。

 12月21日に一行はリバプールへ到着し、列車で行けば悠々ロンドンに着けると思われたが、イギリス領へ戻った途端、フィックス刑事は横浜で受け取っていた逮捕令状をもってフォッグを逮捕してしまう。しかし、やがて本物の銀行強盗は3日前に逮捕されていたことが明らかになる。釈放されたフォッグはフィックスを殴った後、急いでロンドンへ向かうが、フォッグは予定の列車に乗ることができず、予定から5分遅れた午後8時50分にロンドンへ到着した。それは、彼が賭けに負け、全財産を失うことを意味しており、彼はクラブへは向かわず、自宅へ戻った。
 翌日の夜、フォッグはロンドンの自邸にて、アウダに今後質素な生活しか送ることができず、経済的に支えることができなくなったとして、ロンドンまで連れてきてしまったことを詫びるが、アウダは、どのような苦境も2人なら分かちあえるとし、自分を妻にしてほしいと言う。フォッグは翌日の月曜日に結婚式を挙げようと、パスパルトゥーを牧師の元に使いに出すが、パスパルトゥーはそこで、今日こそが約束の月曜日であることを知る。一行は東回りで世界一周したため、日付変更線を横切り、丸1日稼いでいたのだ。 パスパルトゥーは急いでフォッグの元に戻り、リフォーム・クラブへ主人を送り出した。フォッグは期限の時刻ぴったりにクラブへ到着し、賭けに勝利したことを宣言する。こうして、世界一周の旅は終わりを告げた。しかし、旅費に相当な金額を使っていたため、賭けによる利益はわずかであり、それも執事パスパルトゥーとフィックス刑事に分け与えたため、この旅で彼が得たものなど何もなかった。ただ1人、彼をもっとも幸福な人間にした美しい女性を除いて。物語は、しかし、たとえまったく意味がなくても、人は世界一周をするだろうと結ばれる。

 子どもの頃読んだので名誉殺人の部分が「意味不明」すぎて、かえって印象に残っています。

*1:2013年、NHK出版

*2:本当に多いのか疑問(信頼できる統計データがあるのか、高世や中村氏の単なる思い込みではないか?)ですが、仮に多いとしてもそれは「政府等によって把握されてる数」でしょう。「人権意識が高まってきた→自殺や家庭内暴力に注目が集まり、結果として隠れていた数が表に出てきた(実際に増えたわけでは実はない)」という可能性を中村氏が(そして高世も?)無視してるのには呆れます。自殺はともかく「家庭内暴力」についていえば「家庭の恥として表に出ない」「しつけ扱いされてる(児童虐待の場合)」などの「暗数」の可能性は十分にあるでしょう。

*3:邦訳として岩波文庫、角川文庫、光文社古典新訳文庫、創元SF文庫

*4:全20巻。【14】ベルヌ『八十日間世界一周』以外は【1】スチブンソン『宝島』、【2】オルコット『若草物語』、【3】デフォー『ロビンソン・クルーソー』、【4】ウィーダ『フランダースの犬』、【5】ベルヌ『海底二万里』、【6】マーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険』、【7】セルバンテスドン・キホーテ』、【8】ストー『アンクル・トムの小屋』、【9】デュマ『がんくつ王』、【10】ルイス・キャロルふしぎの国のアリス』、【11】ゴーゴリ隊長ブーリバ』、【12】カルロ・コッローディ『ピノキオ』、【13】バーネット『小公子』、【15】ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』、【16】デュマ『三銃士』、【17】アンナ・シュウエル『黒馬物語』、【18】ヨハンナ・スピリ『アルプスの少女ハイジ』、【19】ディケンズオリバー・ツイスト』、【20】マロ『家なき子