リベラル21と阿部治平に呆れる(2023年4月8日分)(副題:今日も松竹伸幸に悪口する)

リベラル21 希望がないソ連型社会主義、健在の西欧社会主義*1(阿部治平)

 韓国最高裁判決に至った徴用工の賠償請求は、「日本の植民地支配は違法だったのだから、それと直結した日本企業の反人道的な行為には賠償請求権が発生する」というものである。韓国最高裁判決もこの論理で書かれている(松竹伸幸ブログ「左翼おじさんの挑戦*2日韓関係の項*3参照)。日韓交渉の経過からして、この要求に日本が応えるのは難しいと感じる

 阿部にはいつもながら「アホか」ですね。
 まず第一に何でそこで松竹を持ち出すのか。松竹は法律の専門家でも、韓国政治の専門家でもない。「松竹の判決評価が正しい」と阿部が見なす根拠は何なのか?。
 1)「日本の植民地支配が違法かどうか」と韓国最高裁判決は関係ない、2)「徴用工に対する賠償請求権」が日韓交渉で韓国政府によって放棄されたどうかは法的に疑問だし、放棄されたとしてもそれが「法的に正当、有効な放棄」と言えるかどうかも疑問(当時は軍事独裁で、放棄について徴用工の同意を得ているわけでもないので)という理解が一般的評価だと思いますが。
 志位委員長もこの点については以下のように指摘しています。この点だけでも俺的には「徴用工問題で韓国側に対して真摯な志位委員長」「『韓国の要望には応えられない』で片付ける冷酷で不誠実な松竹」であり「志位>絶対に越えられない壁>ゴミカスの松竹」ですね。
 松竹なんぞを評価するバカ共には心底呆れます。

徴用工問題の公正な解決を求める――韓国の最高裁判決について/志位委員長が見解2018.11.2
 日韓請求権協定によって、日韓両国間での請求権の問題が解決されたとしても、被害にあった個人の請求権を消滅させることはないということは、日本政府が国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたことである。
 たとえば、1991年8月27日の参院予算委員会で、当時の柳井俊二*4外務省条約局長は、日韓請求権協定の第2条で両国間の請求権の問題が「完全かつ最終的に解決」されたとのべていることの意味について、「これは日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということ」であり、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」と明言している。
 強制連行による被害者の請求権の問題は、中国との関係でも問題になってきたが、2007年4月27日、日本の最高裁は、中国の強制連行被害者が西松建設を相手におこした裁判について、日中共同声明によって「(個人が)裁判上訴求する権能を失った」としながらも、「(個人の)請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではない」と判断し、日本政府や企業による被害の回復にむけた自発的対応を促した。この判決が手掛かりとなって、被害者は西松建設との和解を成立させ、西松建設は謝罪し、和解金が支払われた。
 たとえ国家間で請求権の問題が解決されたとしても、個人の請求権を消滅させることはない。
 このことは、日本政府自身が繰り返し言明してきたことであり、日本の最高裁判決でも明示されてきたことである。

 日本政府と該当企業は、この立場にたって、被害者の名誉と尊厳を回復し、公正な解決をはかるために努力をつくすべきである。

 つまり問題は、「韓国植民地化が違法かどうか」ではない(韓国の政府や最高裁が違法と評価してるのは事実ですが、それは徴用工判決とは直接には関係ない)。そして西松建設は謝罪し、和解金が支払われた。ということで西松建設が中国人徴用工に和解金を支払った以上、韓国側徴用工が同じ対応を求めるのは当然です。なお、「有名な話」ですが「賠償請求権を放棄した蒋介石台湾政府」への対抗(中国共産党が賠償請求した場合、台湾ロビーの巻き返しで国交正常化が挫折する恐れがある)と言う理由で、日中国交正常化交渉でも中国政府によって戦後賠償請求は放棄されてる*5ので、この点、中国人徴用工問題と韓国人徴用工問題には違いはないでしょう。
 「何で中国と韓国で、徴用工問題の対応が違うのか。何で中国相手にできたこと(企業による徴用工への金銭支払いと正式な謝罪)が韓国相手にできないのか。『国交正常化時の賠償請求権放棄』云々というなら中国だって同じではないか。日本にとって中国が大国で、韓国が(中国に比べ)小国だからか」「韓国を馬鹿にするな」と言う韓国側の反応は当然です。
 第二に阿部はこの要求に日本が応えるのは難しいと感じるで片付けるとはどういうことなのか。
 「日本が飲めない要求を出す韓国が悪い」と居直る気なのか。何故そこで「まず日本は韓国と真摯に交渉すべきだ」「交渉すらしないのはおかしい」という言葉が出てこないのか。
 「ダライラマの要望に中国政府が応えることは難しい」と言われれば「中国の無法を全面的に容認するのか」「中国とダライ亡命政府の交渉を全否定するのか」と逆ギレするであろう男が随分と手前勝手なもんです。
 なお、上記は阿部記事に投稿しますがいつものように掲載拒否でしょう。心底呆れます。

【参考:日中国交正常化(特に賠償請求権放棄)】

田中角栄 日中国交正常化交渉の舞台裏 台湾断交で開かれた道 | NHK政治マガジン2022.9.28
 元外交官で、北米局長やイギリス大使を歴任した藤井宏昭*6(89)。
 50年前、藤井は大平正芳*7外務大臣の秘書官を務めていた。
 総理大臣の田中角栄*8や、外務大臣大平正芳が訪中した際、大平と行動をともにした。
 都内でインタビューに応じた藤井は、記憶の糸をたぐるように語り始めた。
 1972年7月、田中が総理大臣に就任。
 田中は、翌月の15日、中国訪問を正式に発表する。
 田中はなぜ、訪中を決断したのか。
 決断の前に、公明党委員長の竹入義勝*9が独自のルートで中国の首相・周恩来と会談し、その内容が政府にもたらされたこと*10が大きいと言う。
 藤井は、中国が日本に戦後賠償を要求しないとした点が重要だったと、証言した。
(元外交官 藤井宏昭)
「『竹入メモ』って当時言われてましたけど、一番大きなところでは、『中国は賠償金は取らない』って書いてあるんですね。田中さんのところに大平さんはすぐ飛んで行ってね。それでメモを見て『うん、行こう』となったわけです。僕は総理の秘書官室かどこかで待って、帰りの車で大平さんから『もう(訪中を)決めたぞ』って」
 中国訪問に至った当時の国際情勢として、藤井が1つ目に挙げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」だ。
 1972年2月、アメリカの大統領のニクソンが、国交がなかった中国を訪問した一連の動きを言う。
 日米関係は盤石と思われていた中で、日本の頭越しに突然起きた米中の接近。
 「日本が『置き去り』になるのではないか」などと、国内に大きな衝撃を与えた。
 さらに挙げたのが、中国側=北京の共産党政権からの視点だ。
 当時のソビエト連邦との、共産主義の国同士の「中ソ対立」のなかで、中国も日本との国交正常化を欲していたという。
 ただ、この点は、当時、日本側にはあまり見えていない部分だったと振り返る。
 こうした国際情勢の中で、日中国交正常化交渉のための中国訪問を固めた日本政府。
 大平は速やかにある行動に出る。
 それは、アメリカへの事前の根回しだった。アメリカは、大統領の訪中は果たしたが、まだ中国との国交は樹立*11していなかった。
(元外交官 藤井宏昭)
アメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことなんです。だから大平さんはアメリカのニクソン大統領に仁義を切っておかないといけないと考えた*12。緻密な方ですから。」
 8月末にハワイで田中とニクソンとの首脳会談が行われた。ともに訪問した大平に藤井も同行した。
(元外交官 藤井宏昭)
「大平さんは、往路は非常に緊張していたが、帰りは、よっぽど嬉しかったんですね、アメリカの了解が取れたって。鼻歌を歌ってね。」
 そして9月25日、田中や大平らの訪中団は北京に到着。
 こうして始まった国交正常化交渉。
 しかし、出ばなをくじかれることになる。
 晩餐会での日中戦争に関する田中の発言に中国側が不快感を示したのだ。
(元外交官 藤井宏昭)
「田中総理は、日本は中国の人民に対して『ご迷惑をおかけした』ということを言ったんですが、翌日午後の首脳会談で周首相が『迷惑』っていうのは非常に軽すぎると。中国語で言ったら非常に軽いんだっていうことを述べてね」
 さらに、具体的な交渉の内容でも日中間で大きな溝があった。日本と台湾との関係だ。
 中国と国交を結ぶということは、これまで国交を結んできた台湾との関係を事実上、切り捨てることになる。
(元外交官 藤井宏昭)
「最大の案件はやっぱり台湾です。中国は、日本と台湾が結んだ日華平和条約は『不法であり、効力を有しない』と言うんですよ。日本は『不法であり』というのは絶対に受け入れられない」
 台湾との関係について、どうすれば中国側と折り合えるのか。
(元外交官 藤井宏昭)
「(ボーガス注:日華平和条約が違法か合法かどうか、無効か有効かどうかを曖昧にした)『不正常な状態』っていう言葉がキーなんですよね。案を出したのは橋本さん*13(当時の外務省中国課長)。日本側の解釈は(台湾との)日華平和条約は有効だったけれども、中国全体と日本との関係では不正常だったと。中国の解釈は、今まで不正常な状態だったということは、日華平和条約は無効で、これから共同声明によって有効な関係を結ぶことができるのだと」
 9月29日。
 田中と大平、周恩来*14姫鵬飛*15は、日中共同声明に調印した。
 日本と中国が国交を樹立した歴史的な瞬間だった。
 共同声明に調印したあとの記者会見で、大平は次のように述べた。
「最後に、共同声明の中には触れられておりませんが、日中関係正常化の結果として、日華平和条約は、存続の意義を失い、終了したものと認められるというのが日本政府の見解でございます」
 会見場で、記者たちは慌てふためいたという。
(元外交官 藤井宏昭)
「日台の関係が切れたということを宣言したわけです。国交は断絶すると。記者は、会見でそういうのが出てくるとは思っていなかったから、とにかく騒然としていました」
 大平には中国と国交を樹立したあと、間を置かず台湾との断交を表明することで、混乱を避ける狙いがあったと藤井は解説した。
(元外交官 藤井宏昭)
「(台湾との関係は)中国との交渉では非常に重要な部分で、それを大平さんは記者会見でやっちゃおうと。日本へ帰ってやったら、また騒然としますからね。だから記者会見でやっちゃって『全部それでおしまい』っていうのが大平さんの気持ちでした」
 だが、この段階ではまだ本当に『全部おしまい』ではなかったのだという。
 田中と大平は、当時、台湾にいた日本人に危害が加えられるような事態が起きないか危惧していた。
 調印した日の午後、訪中団一行は、人民公社を視察するため、首相の周とともに北京から上海に向かった。上海の空港に到着すると、藤井は大平の指示を受けて一行から離れ1人宿舎に向かった。そこで、外務省中国課の首席事務官に電話をかけた。
藤井:
「台湾の情勢はどうだ?」
首席事務官:
「いたって平静です」
 携帯電話のない時代。
 藤井は、宿舎の玄関で田中と大平を待ち構えた。
(元外交官 藤井宏昭)
「玄関の階段の前で待っていて、一行が現れるわけです。車を降りた大平さんに『台湾、いたって平静だそうです』とまず耳打ちしてね。大平さんがすぐ田中さんに同じことを言ったら2人とも本当に安堵して。これで国交正常化は成功したなって」
 藤井は、このときが本当の意味で国交正常化を成し遂げた瞬間だったと力を込めた。

*1:西欧社会主義とは「英国労働党」「ドイツ社民党」などのことでしょう。

*2:正しくは「左翼おじさんの挑戦」であり、「」がつくため、阿部の誤記。随分とお粗末な誤記をするもんです。なお、この誤記については阿部記事コメント欄で指摘したので後で訂正されるのではないか。

*3:阿部が「松竹記事の引用」もしなければ、リンク貼り付けもしないことには呆れます。かなり大量にある日韓関係の項から該当記事を探し出せとでも言う気なのか(呆)。

*4:外務省で条約局長、総合外交政策局長、事務次官、駐米大使など歴任。外務省退官後も中央大学法学部教授(国際法)、国際海洋法裁判所判事を歴任

*5:蒋介石台湾との対抗」と言う政治的思惑があり単純な善意では無いとは言え、「戦犯への対応(例えば藤田茂「中国人民の寛大政策について」参照)」といい中国共産党の対応は日本に対して「戦争被害国としては寛大だった」と言っていいでしょう。

*6:著書『国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ:藤井宏昭外交回想録』(2020年、吉田書店)

*7:池田内閣官房長官、外相、佐藤内閣通産相、田中内閣外相、蔵相、三木内閣蔵相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相

*8:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*9:文京区議、都議を経て衆院議員。公明党副書記長、書記長、委員長を歴任。1998年8月から9月にかけて朝日新聞に掲載されたインタビュー記事で「公明党創価学会の言いなりだった」などと語ったことで公明党最高顧問を解任の上、党から除名される。また、創価学会も竹入を会員から除名した(竹入義勝 - Wikipedia参照)。

*10:このように1970年代から公明党自民党には裏でつながりがあり、それが「1980年代の自公民路線や(失敗に終わったが)二階堂擁立工作」「1990年代以降の自公連立」につながります。奇しくも自公連立当時の首相は「田中派の流れをくむ小渕恵三」でした。

*11:正式な国交樹立は1979年(カーター政権)

*12:要するに田中均元外務省アジア大洋州局長が、日朝首脳会談直前に米国高官に会談についての事前通告をしたことを認めた(高世仁とか家族会ほかの面々は、どんだけ馬鹿なのかと思う) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)と同じ話です。小泉訪朝もアメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことでした。

*13:1926~2014年。外務省アジア局中国課長、ロンドン総領事、アジア局長、シンガポール大使、エジプト大使、中国大使など歴任(橋本恕 - Wikipedia参照)

*14:当時、首相

*15:当時、外相