かんけ(菅家)まり監督映画『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』ほか(副題:松崎明の革マル疑惑を改めて思い出す)

 もともとは新刊紹介:「前衛」2023年5月号 - bogus-simotukareのブログに書いていたのですが長くなったのでこっちに書きます。なお、映画テーマが「沖縄、小笠原返還」「革マル批判、全動労*1支持」という「明らかに左派(今井正山田洋次山本薩夫のような共産党支持?)」の菅家氏について当然、「左翼雑誌(共産党機関誌)」前衛は取り上げていますし「比較的分量も多い」ですが、とはいえ、「他の女性映画人に比べて、何倍もの分量の記事」というわけでもない。
 前衛が菅家氏を強烈にプッシュしてるわけでもなければ、俺が「菅家ファン」「全動労支持」というわけでもないのですが、「こういう映画も国立映画アーカイブの上映会で上映するんだ!」「つうか、こんな記録映画が過去にあったんだ!」という驚きが大きかったので特筆大書しました(但し、映画『女性映画人の活躍を発掘』(児玉由紀恵、前衛5月号)の紹介記事なので菅家氏以外についても触れています。無能な小生には独自に紹介記事を書く能力がないので、他人の記事を引用紹介してコメントするスタイルですがご容赦ください)。
 なお、菅家映画と同名の山岸一章*2『鳴らせ自由の号笛:ドキュメント全動労』(1974年、新日本新書)と言う著書があるようです。
文化の話題
◆映画『女性映画人の活躍を発掘』
(児玉由紀恵、前衛5月号)
(内容紹介)
 日本の女性映画人(1)――無声映画期から1960年代まで | 国立映画アーカイブの紹介。2/7から3/26なので既に終了しています。しかし「(1):1960年代まで」ということは「(2):1970年代以降」も予定されてるのか?
【2023年10月24日追記】

日本の女性映画人(2)(仮)
2024年2月6日[火]-3月24日[日]
 2022年度に開催した「日本の女性映画人(1)――無声映画期から1960年代まで」に続き、日本における女性映画人の歩みを歴史的に振り返る特集として、スタッフとして女性が参加した作品を上映し、様々な分野で活躍した女性映画人を取り上げます。

だそうです。
【追記終わり】
 なお、「年代で無理に分けるとかえってややこしい」ということなのでしょうが、タイトルが「1960年代まで」なのに菅家まり『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』は1975年の映画です。
 なお、他にも上映作品には

◆『木内克とその作品』(1971年、楠田浩之監督、楠田芳子脚本:楠田芳子は楠田浩之(木下惠介監督の下で撮影技師)の妻で、木下惠介の妹)
◆『結婚する娘へ:父の愛』(城田孝子監督、1972年)
◆『絵図に偲ぶ江戸のくらし』(時枝俊江監督、1977年)
◆『光った水とろうよ:幼児の知的好奇心をさぐる』(時枝俊江監督、1979年)
◆『五島列島の若者組』(中村麟子*3監督、1986年)
◆『女たちの証言:労働運動のなかの先駆的女性たち』(羽田澄子*4監督、1996年)

と1970年代以降の映画があります。
 上映作品を見る限り「女性監督:記録映画や教育映画」と言う傾向がありますね。劇映画(商業映画)での女性映画人は「脚本家」など監督以外です。国立映画アーカイブの上映会が、意図的に「女性監督:記録映画や教育映画」にしたというよりは「1960年代まで」はそういう時代だったのでしょう。
 「映画」のブログ記事一覧-ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)という映画ファンであり、拙記事によくコメント頂くid:Bill_McCrearyさんのコメントを頂きたいところではあります。
 なお、この映画上映会ですが

◆『宗方姉妹』(1950年)
 小津安二郎監督。但し、ここでは女性映画人として鈴木伸(スクリプター)が取り上げられています。
◆『地獄門*5』(1953年)
 衣笠貞之助監督、長谷川一夫京マチ子主演。但し、ここでは女性映画人として秋山みよ(スクリプター)が取り上げられています。
◆『狂った果実』(1956年)
 石原裕次郎北原三枝*6主演。但し、ここでは女性映画人として水の江瀧子*7(映画プロデューサー)、森英恵(衣装デザイン)が取り上げられています。
◆『蜘蛛巣城』(1957年)
 黒澤明監督、三船敏郎山田五十鈴主演。但し、ここでは女性映画人として野上照代*8スクリプター)が取り上げられています。

といった有名映画もあるのですが前衛記事も「後で紹介する日経等の記事」もそんなものは紹介しません。まあ、メジャー映画はこの上映会でなくても見れますからね。特に「映画マニア」を自負してるとどうしても紹介の方向が

藤原智子監督映画『オランウータンの知恵』
◆かんけ(菅家)まり監督映画『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』

といった方向に行くのでしょう。

参考

女性映画人 発掘盛ん - 日本経済新聞2023.1.30(編集委員 古賀重樹*9
 国立映画アーカイブは2月7日~3月26日に特集上映「日本の女性映画人(1)無声映画期から1960年代まで」を開く。監督やスタッフとして活躍した80人以上の女性に光をあて、手がけた81作品を上映する。
 日本の女性監督第1号*10となり満州映画協会で「開拓の花嫁」(43年)などを撮った坂根田鶴子*11をはじめ、女優から監督となった田中絹代*12望月優子*13、脚本の水木洋子*14田中澄江*15、編集の杉原よ志*16、衣裳デザインの森英恵*17など顔ぶれは多彩だ。
 特に注目されるのは戦前の女性脚本家。
 松竹蒲田で母ものや少女ものを書き後に少女小説家となる水島あやめ*18を除けば*19、近年では忘れられていた。
 例えば最初の映画スター尾上松之助*20の座付き作家であった林義子*21。チャンバラ映画を多作した。「女性脚本家といえば文芸作品というのは戦後のイメージにすぎない」と森宗氏。
 無声期から戦中まで活躍した鈴木紀子はその代表格。松竹脚本研究所で学び、日活、東宝で脚本を書いた。「チョコレートと兵隊」(1938年、石川秋子名義)*22は銃後の美談を描く時局映画だが、出征する父と子の情愛を日常の光景の中で細やかに描き出し、庶民のペーソスに満ちる。戦後は映画界を離れ、故郷の石川県で婦人運動に尽力した。
 もう一つの鉱脈はスクリプター(記録係)だ。戦前から女性が主力の専門職として確立され、層が厚い。坂根をはじめ、ここを出発点に監督に進出した例も散見される。37年から東宝スクリプターを務めた石山一枝*23は戦後に文化映画の編集や演出助手を経て、「かんけまり*24」の名でフリーの記録映画監督となった。

 なお、かんけ(菅家)まり監督映画『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』(1975年、全動労のたたかいを記録する会)ですが、

全動労 鳴らせ自由の号笛 1 - YouTube
◆製作意図
 この映画は、動労本部に巣くう革マル派の本質を明らかにし、すべての国鉄労働者の団結と統一をよびかけ、政党支持の自由と組合民主主義の旗を掲げた全動労の力強い斗いを描いたものです。
◆あらすじ
 全動労という組合が生れた動労問題の発端は、1972年11月におこった。動労本部「革マル派」は、翌73年6月の参議院選挙に社会党候補者、目黒今朝次郎氏*25を支持することとそのためのカンパを組合員から徴収することを機関決定した。
 しかし、その不当な決定は、1万人にのぼる未納者を出した。そこで、本部「革マル派」は、選挙カンパを踏絵に、「肉体的説得」と称する暴力行為を各地でくり広げた。そして札幌地本と13支部の執行権を剥奪し、遠藤委員長の執行権を不当にも停止してきた。
 動労本部に巣くう「革マル派」は、その正体を表わし、1973年12月22日以降、連日にわたって札幌地本と13支部を約400名の暴力集団て襲撃した。
 組合員の人権と民主主義を守るために、そして生活と権利を守るために、国鉄労働者の階級的、民主的統一を目ざす労働組合を。全動労は自由の号笛を吹き鳴らしながら出発した。

だそうです。時代を感じさせます。
 動労松崎明*26が元委員長で、松崎は革マルともつながりがあったと言われる)と革マルの関係と言えばググる

西岡研介*27マングローブ:テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』(2007年、講談社)、『トラジャ:JR「革マル」30年の呪縛、労組の終焉』(2019年、東洋経済新報社
◆牧久*28『暴君:新左翼*29松崎明に支配されたJR秘史』(2019年、小学館

なんて本もヒットします(未読なので評価できませんが)。
 こうした「まず商業ベースでは上映されない映画が見られること」はこの種の映画上映会の魅力でしょう(既に上映期間が過ぎていますが)。
【参考:かんけ(菅家)まり】

【女性映画人・かんけまり】動労・革マル支配に抗した全動労の戦いの映画 前篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.3.6
 東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で上映されている『日本の女性映画人(1)~無声映画期から1960年代まで』という特集の一環で、『かんけまり』という奇妙なペンネーム(?)で活動をしていた『文化・教育映画やPR映画などの監督、脚本、編集に携わ』っていた人を取り上げたプログラムがあった。
 上映前に、このような配布物が特別に配られた。
 次のような記述があった。
『※元々の本名は石山一枝だが、戦前に東宝時代より通名「石山まり」を用い、戦後に菅家陳彦*30との結婚により改姓して、かんけまり名義となる。(別名:かんけ・まり、菅家まり、菅家マリ、菅家一枝)』
 (私にとって)面白かったのは、『かんけまり』名義の作品の一つに『鳴らせ自由の号笛~人権と民主主義を守るたたかい』(1975年、全動労のたたかいを記録する会、23分、16mm、白黒)というものがあった点だ。
 『鳴らせ自由の号笛~人権と民主主義を守るたたかい』という映画は、『革マル派』が既に支配を確立していた当時の動労本部と、『政党支持の自由』問題を巡って対立し、その結果、動労北海道本部から排除されたことに対して、新たな労働組合を設立して、戦いを継続した全動労全国鉄動力車労働組合)に結集する労働者とそれを支援する人々を描いた作品である。
 もっとわかりやすいような書き方をすると、当時この組合は、(大手メディアによって)日本共産党系の労働組合の活動とも言われていたと思う。
 しかし、もともと『日本共産党』とは何の関係もなく、むしろ、学生運動やその後(社会人になってからも)結構、長時間続けていた労働運動や労働争議のなかでも、『非共産党系』『新左翼系』などと区分される側にいた私自身の目から見ても、この映画は、撮影後50年近く経過した今日、大変、興味深い事実を伝えていると感じる。
 というのは、当時(1974年)、目黒今朝次郎という動労委員長が、社会党から参議院・全国区で出馬した。
 この目黒氏へ組合員(とその家族)の票を集中することを求める動労本部の指導に対して、『労働組合に対して政党支持を押し付けるのは間違いだ』と主張する動労の北海道地区の支部等との間に紛争が生じ、動労本部からの全動労の分離独立につながったのである。
 この映画について、もう少し詳しくその内容を紹介して行きたい。
(つづく)

【女性映画人・かんけまり】内ゲバこそ堕落の極致 『全動労の映画』の意味は 後篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.3.8
 この映画は、前回も書いたように、『動労』の本部が、委員長であった目黒今朝次郎を社会党から参議院・全国区の候補者として送り出したなかで起こった、いわば『労働組合内のもめごと』を対象としている。
 『動労』の北海道の組合のなかで、当時、『政党支持の自由化』『労働組合に対して、政党の支持を押し付けるべきでない』という主張で活動を行っていた(わかりやすくいうと)『共産党系』の労働組合員たちが、多数、結集している支部やその上部組織が存在していた。
 これに対して、『動労』は、暴力的に彼らの活動を停止させようとして、ヘルメットをかぶり、他党派との内ゲバなどでも鍛えられた革マル派の『戦闘集団?』を北海道に派遣した。
 そして、組織的な攻撃を仕掛けて、動労の北海道組織の会館を襲撃したり、その争奪戦を展開した。
 それに対して、『動労』の北海道組織の人々は、最終的に、『全動労』という別組織の労働組合を設立して、彼らの戦いを継続するに至った。このようなプロセスを描いた映画である。
 率直に言って、直接、日本共産党と関係を持っていない私自身にとっては、これを見て何とも不思議な気持ちがしてしまう。
 というのは、今日、例えば松竹伸幸氏という、少し『変わった人』という印象を受ける1955年生まれ*31の男性(68歳の『おじさん』あるいは『おじいさん』)が、『日本共産党の党首公選論*32』というのを呼び掛けていて、それが多少、話題になっている。
 だから、マスコミ的、あるいはメディア的には、『鳴らせ自由の号笛』とか『人権と民主主義を守る戦い』といった言葉は、『表現の自由』とか『党内民主主義を守る』などと言った言葉に置き換えられながら、むしろ、現在の共産党中央の指導の在り方*33を批判する用語として今日では使用されているような気がする。
(もっとも、私の見たところ、松竹氏の主張は、現場の共産党員の多くの人たちには、『余り共感を得られていない?*34』というようにも見える。松竹氏の主張は、『(ボーガス注:一部の)マスコミ受け』、『一部の文化人、知識人受け』しているだけのようにも見えてしまう。
 そういう意味では、なぜ、こうした逆転現象?が、この50年(『鳴らせ自由の号笛』という映画の制作からの時間経過を考えると)の間に生じてしまったのかは、(客観主義的にいうと)面白いというか興味深い現象のように見える。
 ともかく、この映画においては、まさに『動労本部』の『水戸黄門の印籠』を掲げて登場した、(実質的には革マル派の)『武闘集団』が破壊行為や人やモノを損傷する行為を繰り返していたのは明白である(それに対して、『全動労』を支援する側でも、『やられたら、やり返せ』という対応は見られたのだろうが)。
 それに対して、『職場から放逐された労働者』が一般的にとる手法である、『地域の支援の人々』と結びついた活動を全動労の人々は行っていったようである。
 ともかく、この映画を見て、私は何十年もの過去のはざまに、置き忘れられたかのような『記録映画』あるいは『記憶』を見つけたような思いがした。
 これだから、『昔の映画』を見るのはやめられない。
 特に、今回の『日本の女性映画人(1)』という『国立映画アーカイブ』での特集は、意識的に、『ドキュメンタリー映画』『記録映画』『文化映画』なども対象に含みこんでいるので、特に面白いものを見ることが出来そうだ。
 なお、普通の劇映画でも、1950年代から1970年代、80年代のものを見ると、思いがけないところで、当時の世相が画面に写っていた*35り、あるいはその世相の影響を反映した言動が見られるのも面白い。

 話が完全に脱線しますが赤字部分には「松竹なんか一部の反共バカが持ち上げてるだけですよねえ!」とガッテン、ガッテンです。
 まあ、この「かんけまり映画」紹介記事において「松竹」云々は完全に脱線ですが。

佐藤栄作の功績 - 指田文夫の「さすらい日乗」2023.2.27
 昨日は、国立映画アーカイブで、「かんけまり」特集を見た。
 かんけは、東宝スクリプターから始まり、戦後は記録映画監督になった。
 4本が上映されたが、3本目の『ガジュマルは生きている』が、興味深かった。
 これは、沖縄返還を叫ぶ短編だが、なかで佐藤栄作首相が来て、「沖縄が戻って来なければ、戦後は終わっていない」の名言を残した。
(中略)
 4本目の映画は、『鳴らせ自由の号笛』で、これは国鉄の動力車労組(動労)の、革マル派の支配に対する、共産党系の反対運動を描くものだった。
 これは、参議院選挙での、動労の組織内候補の目黒今朝次郎への寄付を強制したのに対する反対から起きたものだったが、革マルは、本当に信じがたいほどの(ボーガス注:野蛮な)連中だった。

 「全動労(現・全国鉄道本部)結成の経緯とたたかい」をこの機会に紹介しておきます。内容的には上で紹介した記事とかなりかぶります。

 全動労動労(動力車労働組合~現在のJR総連を作り上げた中心組合)から排除された組合員を中心として1974年に結成された労働組合です。その経緯とたたかいは次の通りです。
動労が1972年に次期(1974)参議院選挙に、当時の動労委員長を立候補させることを決定するとともに、組合員に対して「票読み」や「選挙カンパ」の強制も決定しました。同時に組合規約に「上部機関(大会・中央委員会)で決定した方針への絶対服従」を強制する条項を新設しました。
 当時から動労本部は反共暴力集団である「革マル派」に牛耳られており、組合民主主義否定の暴挙を繰り返し、それに対して全国各地から反対の声がまき起こっていました。
 動労本部「革マル派」は、組合民主主義を守れ、特定政党支持の強制反対などの組合員の意見に対して、組合員の選挙権・被選挙権の停止、役員の執行権停止、除名処分(529名)などを乱発しました。決定に反対する札幌地本や支部の組織機能を停止するばかりか、動労本部に服従する組合員の「再登録」という規約にない暴挙を行いました。
 そのうえ、組合事務所を暴力的に襲撃したり、反対する組合員への暴力的追及などを全国でくり広げて社会的批判をあびました。
 こうした中で、1974年3月31日、全国の仲間は、これらの攻撃をはね返し、生活と権利を守り要求実現のために、人権と民主主義を守り、国鉄労働者の組織的統一をめざす、階級的・民主的労働組合として、全国鉄動力車労働組合連合会(全動労)を結成しました。
(中略)
 その後、全動労労働組合の全国組織「全労連(全国労働組合総連合)」の創設・結成に参加し、全労連加盟単産としてその役割を追求しました。
 1999年の建交労結成に際し、全動労全国鉄動力車労働組合)は全国鉄道本部という名称・組織形態(広域支部)に変更しながら単産合同に参加し、今日に至ります。

 最後に菅家氏以外の女性監督についても記事を紹介しておきます。

【痛快な女性映画人の記録】『国立映画アーカイブ』藤原智子監督 前篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.3.3
 昨日(2日)、また東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見た映画で面白いものがあったので、紹介をしておこう。
 前にも少し取り上げたが、ここでは、2月7日~3月26日まで、『日本の女性映画人(1)~無声映画期から1960年代まで』という特集をやっている。
 藤原智子と渋谷のぶ子(漢字は、扁が『永』+旁が『日』という字である)という二人のドキュメンタリー映画とか記録映画・文化映画などと呼ばれる分野で功績を残した女性を取り上げていた。
 中身は、藤原智子さんの1960年の『オランウータンの知恵』という作品、渋谷のぶ子さんの『挑戦』という日紡貝塚女子バレーボール部の(大松監督による)猛特訓ぶりを描いた作品(これは1963年の作品、カンヌ国際映画祭短編部門グランプリを当時受賞している)の二本の上映後、2007年の『わが映画人生 藤原智子監督』という渋谷さんによる藤原さんへのインタビューを収録したもの(68分)が上映された。
 人が死んでしまうのは、『人間の運命』だから仕様がないと思うが、彼女らのように、『やりたいこと』をそれなりにやり切って、亡くなり、しかもその痕跡を今でも確認できるような形で残しているというのは、(TBSテレビの『サンデーモーニング』の張本勲氏、故大澤啓二監督の流儀でいうと)誠に『あっぱれ』な人生だったといえよう。
 このインタビュー自体は、『日本映画監督協会』が今の『国立映画アーカイブ』の要請などにも応えて、日本でも『映画人たちの記録』をきちんと残しておこうと、監督や映画人のインタビューをまた、別の映画人がインタビュアーになって行うというスタイルの企画の一環で制作されたもののようである。
 『同世代の女性映画人』であるが故に、当時の映画の撮影所が『完全に、タテ社会の男の社会だった』ということは、二人とも知り尽くしている。
 例えば劇映画で昔、杉村春子さんか誰かが、『濡れ場』の演技をしたことがあったが、その時は、杉村さん以外は、出演者もスタッフもすべて男性という状況で撮影が行われたと渋谷さんは語っていた。
(考えてみると、『パワハラ』というか『セクハラ』というか、何やら非常におかしな状況で映画が撮影されていたような気がしてしまう。こういう状況を嫌って、藤原さんは、最初から『劇映画』を撮りたいとは思わなかったと語っていた。)

 藤原映画や渋谷映画も「菅家映画」と同じで、この種の記録映画は商業ベースではまず上映されませんので、こういう上映会は貴重です。

【痛快な女性】藤原智子が60過ぎて再ブレーク出来た訳 後篇 | 北京老学生・台湾から日本に本帰国2023.3.5
 2日に東京・京橋の『国立映画アーカイブ』で見た<わが映画人生 藤原智子監督>というインタビュー映画の感想を書いて行く。
 藤原智子監督は、次のように少し変わった、業績の残し方をしている。

藤原智子 - Wikipedia
【作品リスト】
◆オランウータンの知恵 (1960年)
 監督デビュー作
◆歌舞伎の後見 (1992年)
 歌舞伎の舞台において、能楽師の補助をする後見の役割について追った作品。
◆杉の子たち*36の50年 (1995年)
 第二次世界大戦中の学童疎開を主題とした作品。
 日本映画ペンクラブ・ノンシアトリカル部門第一位受賞。
◆ルイズ その旅立ち (1997年)
 大杉栄伊藤野枝夫妻の四女・伊藤ルイの活動を追った作品。
 日本映画ペンクラブ・ノンシアトリカル部門第一位、キネマ旬報文化映画部門第一位、毎日映画コンクール文化映画賞、スポニチ文化芸術大賞優秀賞など受賞。
◆伝説の舞姫 崔承喜:金梅子が追う民族の心- (2000年)
 「世紀の歌姫」と絶賛された崔承喜の半生を、韓国舞踊会の第一人者・金梅子が追った作品。山本安英賞受賞。
◆夢は時を越えて:津田梅子が紡いだ絆- (2000年)
 津田塾大学創始者・津田梅子の足跡を追った作品。
 キネマ旬報文化映画部門第一位、第55回毎日映画コンクール記録映画文化映画賞、日本映画ペンクラブノンシアトリカル部門第一位ほか、多数受賞
ベアテの贈りもの (2004年)
 日本国憲法第24条「男女平等」の条文の草案を書いたベアテ・シロタ・ゴードン*37の物語。
 2005年度芸術選奨文部大臣賞受賞。
◆シロタ家の20世紀 (2008年)
 戦争に翻弄され続けたベアテらシロタ家の物語。「ベアテの贈りもの」の続編とも言える作品。
 第7回キエフ国際ドキュメンタリー映画祭審査員大賞受賞。

 1932年生まれの藤原さんの映画監督としての仕事の実績は、28歳くらいで『初監督作品』『監督デビュー作』の『オランウータンの知恵』を発表して以降、第二作『歌舞伎の後見』(1992年)まで30年間のブランクが存在している。
 そして、それ以降(特に1997年の『ルイズその旅立ち』以降)、せきを切ったように、次々と話題作を送り出し、2008年の『シロタ家の20世紀』が、(ロシアのウクライナへの侵攻・侵略で話題になっている)第7回キエフ(最近は、『キーウ』と呼ぶのが一般的になっている)国際ドキュメンタリー映画祭審査員大賞を受賞した。
 私は、藤原智子監督について、まだよく知らないので断定的なことは言いにくいが、彼女は、かなり『翔んだ人(女性)』だと思う。
 彼女は、大学卒業後、新理研映画に入社し、ここでニュース映画制作の勉強をした。その後、『日本映画新社*38』に移籍した。
 このころ、彼女は、『劇映画の世界』は完全な男社会で、自分は全く受け入れられない、しかし、『記録映画・文化映画・ドキュメンタリー映画』の世界では、自分が存在できる余地があるかもしれない、と思ったようだ。
 それで、『オランウータンの知恵』という映画も、いろんな学者などが、『オランウータンに対して知能テスト』を試みるという、見方によっては、かなり地味な映画だが、それが(通常よりも)ロングバージョンの映画になって、劇場で『長編映画』との二本立て上映で、世間の目に触れるというチャンスを得た。
(私には、この映画の『すばらしさ』を評価できないが、ともかく、話題になって、世間、特に映画評論家のおじさんたちの評判も良かったようである。)
 それで、彼女を『監督デビュー』へと抜擢した人物(この映画会社の幹部だったようだ)は、自分の『目利き』が当たったことに喜んで、『この調子でどんどん映画を作れ』といったそうだ。
 しかし、どういう巡り合わせでそうなったのか、細部はよくわからないが、彼女は、その後、『実は私、結婚した直後に妊娠したのです』『だから、映画監督のような激務は、出来ません』『でも、仕事は辞めたくありません』などと『正論?』を主張したようである。
 その結果、彼女は、『映画監督』のような最前線から『脚本執筆』等の裏方の仕事に飛ばされたようだ。
(かなり、『男社会』の人々は、怒ったようである。それも、ある意味、当然かもしれないが…。)
 その結果、彼女は、映画監督としての経歴は、30年間のブランクを余儀なくされた。
 ところが、これも(あの『インタビュー映画』を)一回しか見ていないので、細部をよく覚えていないが、長い期間、子育てを中心の生活が続いたようだ。
 しかし、その子が大きくなった(高校生か大学生くらいになっていたのではないか)時期に、彼女は、もう一度『映画監督』というポジションに挑戦すべく、1980年、47歳で仕事に復帰したという。
 さらに、『能・歌舞伎などの伝統芸能』についての短編映画を制作する機会に恵まれ、彼女は、『自分がそれらの伝統芸能について全く知らなかったために、新たな好奇心をかきたてられて取り組んだ』のだという。
 しかも、(有名な歌舞伎役者ならそのような『舞台裏』を撮れたはずもないが)、新米の歌舞伎役者の『研修の課程』という『裏の世界』に立ち入ることが認められ、その世界を『新たな視点』で映画作品にまとめたようだ。
 しかも、最後の10年くらいは、彼女が、(アナーキストで、関東大震災の際に、憲兵隊により)妻・伊藤野枝、大杉の甥・橘宗一(6歳)と共に虐殺された(『甘粕事件』とも呼ばれる)事件に関心を高め、大杉と伊藤の四女・伊藤ルイの生涯を追った『ルイズ その旅立ち』を1997年に制作したことから、その後の驚くような『作品の連鎖』が生み出されたようだ。
 実は、彼女が伊藤ルイの映画を撮りたい、しかし、伊藤はマスコミ(メディア)嫌いで、さらにそれらに対する不信感も強く、『なかなか同意を得られそうもないな』と種々、躊躇しているうちに、1996年に亡くなってしまった。
 『ああ、手遅れになってしまった…』と思いながら、その後、彼女は、生前の伊藤の映像を自分自身で撮ることができなかったままに、伊藤をしたう人々から取材を深め、ついに、『主人公の死後』にその『記録映画を作る』ことに成功した。
 その後、(私自身は、その『つながり』をまだ理解できていないのだけど)、伊藤ルイの親戚の血筋に当たる女性との出会いなどを経て、日本国憲法の作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードンを取り上げた作品、ベアテの父であるレオ・シロタを取り上げて、さらに話は、『ナチス強制収容所(絶滅施設)』そして、ウクライナの人々へとその結びつき(ならびに、それを支える人々の連鎖)は、どんどん、『過去から未来へ』とつながっているようである。
 以上、今回の藤原智子監督のインタビューを見ただけでも、『翔んだ女性(人間)』の行動力が、いかに(思わざる)連鎖を作り出し、『人々の輪』をつないで行くかを考えると、この映画は、決して『古い映画』ではなく、『古びることのない、新しい映画』だという気がしてくる。

『女学生記』と『わたし達はこんなに働いてゐる』 - 指田文夫の「さすらい日乗」2023.3.1
 この日は、脚本の鈴木紀子と厚木たか。
 (ボーガス注:1941年公開、鈴木脚本の)『女学生記』は、まさに女学校の生徒たちの日常を描くもので、松竹蒲田的作品。
 (ボーガス注:1945年公開、)厚木たかの『わたし達はこんなに働いてゐる』になると、状況は一変する。1945年2月なので、サイパン島が陥落していて、(ボーガス注:「私たちがこんなに働いているのに、なぜサイパン島では日本軍が玉砕してしまったのだろう」という)悲痛な叫び、叫びである。すぐに沖縄戦になるわけだ。
 海軍の被覆廠での、女子たちの労働を描くもので、実に悲惨である。

ドキュメンタリー映像集成(第1期) | 公益社団法人 映像文化製作者連盟 / JAPAN ASSOCIATION OF AUDIOVISUAL PRODUCERS, INC.
わたし達はこんなに働いている (朝日映画社)1945年 18分
構成:厚木たか、演出:水木荘也、撮影:小西昌三
 敗色の濃厚になった時期に海軍衣料廠の女子挺身隊を取材。「私たちがこんなに働いているのに、なぜサイパン島では日本軍が玉砕してしまったのだろう」と肩を寄せ合って泣いたという、少女たちの凄まじいまでの労働を描く。戦争末期の狂気とも言える意識の倒錯が、そのままカメラに捉えられている。

 タイトルだけ見ると「働いても食えないのはおかしい!、何で俺たちはワーキングプアなんだ!」みたいですが戦意高揚映画だそうです。
 さて、作成に関わった面子ですが、まず厚木たか

厚木たか - Wikipedia
・1930年、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)に参加。
・脚本を担当した荒井英郎*39監督の映画『われわれは監視する:核基地横須賀』(横須賀を映画で記録する会、1975年)がモスクワ映画祭平和委員会賞、ライプツィヒ国際記録・短編映画祭金鳩賞をそれぞれ受賞
◆雑誌掲載エッセイ
・1976年、「軍部と特高警察のシナリオ検閲」を『文化評論*40』4月号に掲載。

◆厚木が参加した日本プロレタリア映画同盟 - Wikipediaについて
日本共産党を支持する勢力の強い全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)の傘下に発足し、続いて日本共産党の指導下にあった日本プロレタリア文化連盟(コップ)に加盟したことから、日本共産党の方針の影響を強く受け、多くの活動家が治安維持法違反容疑で検挙された。
小林多喜二は「プロキノ友の会」の発起人であった。

ということでもろに今井正山本薩夫のような共産系の左翼ですね。
 この映画は今井正の戦前の戦意高揚映画『望楼の決死隊』(1943年)みたいなもんで本人、忸怩たるもんがあったのではないか。
 戦争末期の狂気とも言える意識の倒錯が、そのままカメラに捉えられている。といったところでそれは「現在の目から見ればそうした異常性を感じる」と言う話であって、厚木が反戦左翼として「そうした映画作りを意図的にした」わけではないでしょう。
 kojitakenには以前「ウィキペディアばかり使う能なし」よばわりされましたがこのようにウィキペディアは本当に便利です。
 次に水木荘也ですが以下の記事がヒットしたので紹介しておきます。

フツーに生きてるGAYの日常 水木荘也「或る保姆の記録」●MOVIEレビュー
 1942年という戦争真っ盛りの軍国主義「右ならえ」の時代に、亀井文夫氏以外にも、映画でささやかな抵抗を実践していた映画人がいたのだ。僕にとってリスペクトするべき新たな映画人を発見した喜びに、心が躍った。
 この映画は、なんの変哲もないどこにでもあるような保育園にカメラを持ち込み、どこにでもいる保母さんの仕事の様子を、なんのメッセージ性もなく描いている。
 なにがすごいのかと言えば、「お国のために死にましょう」というメッセージを込めないと映画が作れなかったあの時代に、メッセージのない映画をつくることなど、ほぼあり得ないことだからである。
 1942年と言えば真珠湾攻撃の直後であり、日本がいちばん戦勝ムードに沸き立っていた頃。皇国思想を喧伝するものでなければ「軟弱」であり「意味のないもの」として切り捨てられていた。
 「ハワイ・マレー沖海戦」や 「加藤隼戦闘隊」のような「勇敢」で戦意を高揚させるために「意味のある」表現でなければ「女々しい」ものとして断罪されてしまう。
 そんな中、戦局とはまったく無関係に日常を過ごす無辜の民のなんでもない日常を描く。なんという勇気だろう。
 上映を観た下北沢TOLLYWOODのパンフレットから、この映画の解説を紹介する。
「厚木たかが、戦時下の働く母と子供達の生活を、東京大井の労働者街の私立保育所を舞台に見つめた。厚木は「映画統制委員会」から呼び出され、シナリオに戦時教育的内容を加えるよう圧力を受けている。」
 厚木たか氏とは、この映画の構成者。監督は水木荘也氏
 ただし、映画の冒頭に次のような但し書きが付けられていた事も注意しなければならない。
「この映画は戦後に再編集されたものであり、実際よりも短くなっている。」
 ひょっとしたら、公開時には政府の圧力に従わざるを得なくて、戦時教育的内容を足した形のものが上映されたのかもしれない。そうだとしたら、それはどういうシーンだったのだろう。もし戦時教育的な内容が足されていたのだとしても、制作者達が作品に込めたかった心意気は少しも揺るがない。
 人は、カメラを向けられると緊張するものだ。
 フツーの人々は俳優ではない。「自然に見せるための訓練」を受けていない。
 フツーの人々がカメラの前で自然に振る舞うためには、カメラに慣れる時間が必要だし、取材者達との人間的信頼関係が成り立っていないと難しい。
 しかしこの映画の園児たちは、驚くべきほど自然に生き生きとカメラの前で振舞っており、主人公の保母さんもまったく緊張していない。
 よほどの粘り腰で長期取材した成果であろう事が伺える。
 当時は、今のようなデジタルカメラとは違ってカメラは重く、(中略)しかもカメラを廻すと「カタカタカタ・・・」と大きな音がするので気配を消すことも難しい。さらにカメラで同時録音は出来なかったので、録音には大きなマイクとテープレコーダーが必要だった。屋内撮影のためには照明機材も必要だし、かなり大きかったはずだ。
 現場での撮影スタッフ達の存在感・威圧感は相当に大きかったことだろう。そう考えると、これほどまでにリラックスした情景を撮影できたことは、奇跡に近い技である。
 この映画がこうした「あたりまえの日常」の「あたりまえの人間の姿」を記録しておいてくれたおかげで、今日の我々は戦時下の人たちのことを「狂信的」で「盲目的」な人たちだったという大雑把な先入観から解放される。いつの時代にも、フツーの庶民はフツーに生きていたのだということを確認できる。

 最後に小西昌三

StudioNello(スタジオ・ネロ)
 「新幹線大爆破」の特技監督成田亨さんと勘違いしている人が多いけど実際は、東映の特殊技術課の課長・小西昌三さんという方なんですよ。成田亨さんを知らない人が多いと思うので分かるように(ボーガス注:説明しておきます)。初代ウルトラマンのデザイナーです。

76. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」|創立70周年特別寄稿『東映行進曲』
 『ゴジラ』(1954年)を始めとする特撮怪獣映画シリーズのヒットで1957年に特殊技術課を設立した東宝、『君の名は』(1953年)で円谷英二の協力を得て特撮を取り入れ成功した松竹、東京の特撮陣と京都の撮影陣が共同で取り組んだ歴史スペクタクル大作『日蓮と蒙古大襲来』(1958年)や東宝に対抗しSF特撮に挑んだ大映、大ヒットしたスペクタクル大作『明治天皇と日露大戦争』(1957年)や怪談映画シリーズを手掛ける新東宝など特撮技術において東映は他社の後塵を拝していました。
 1959年、第二東映の設立を目指し、新たな技術を取り入れたい(ボーガス注:東映社長)大川博は、新東宝から上村貞夫、松竹から矢島信男、二人の特撮技術者を東映にスカウト
(中略)
 そして「これからは特撮と動画の時代」と語る大川は、第二東映事業を始めた1960年6月に特殊技術課を設置、課長に戦前の日活入社以来様々な会社で撮影技師として特撮を担当してきた小西昌三を就任させ、(中略)特撮チームを組成しました。
 大川が行った特撮技術者の招聘と特殊技術課の創設は、映画でこれまでできなかった映像表現を可能にするとともに、この後、子供向け特撮ヒーローテレビ映画で大きく花開きます。

 さて厚木たか映画についての「某右翼」の感想がこちら。

わたした達はこんなに働いてゐる : 映画収集狂2007.4.7
 「わたし達はこんなに働いてゐる」は、終戦間近の昭和20年6月28日に公開された、戦意高揚を目的としたいわゆる国民総動員映画です。
 国民映画賞を受賞しています。
 海軍衣糧廠で軍服を縫製している女子挺身隊の少女たちの必死の作業が齣おとしで撮影されているので、すべての動作が(部分的には、コマ落しで)目まぐるしく描かれています。
 この作品をどう見るか、戦争に憑かれた人間のヒステリックで異常な姿と見るか、あるいは、その少女たちを「いとおしく」「けなげ」と見るか、いろいろあっていいのですが、僕はまず、後者と見ています。
 黒澤明の「一番美しく*41」を見たときの感動に通ずるあの思いと同じです。
 必死の作業の最中にミシンの針が突然折れて、くやしさに突っ伏して泣く少女の有名なシーンは、戦時下に生きた国民の異常さを象徴するという意図のもとに、僕達はこれまで、しばしば見せられてきたのですが、あそこに描かれている少女たちの姿や気持ちのすべてが、戦意高揚のために作為的に作られた嘘*42だったとはどうしても思えませんし、反省したり全否定すべき種類のものでもないと考えています。
 むしろ、ある時代の極限の瞬間を見事に捉えたドキュメンタリーとして、ここに描かれているけなげな少女たちの「居ても立ってもいられなかった切迫感」必死さ、懸命さにこそ、時代にまともに向き合おうとした誠実さに対して、いとおしさで胸うたれるものがあります。
 「実にいやな時代だった」と言い切ってしまうことで自ら見えにくくしてしまう映像の真実もあるのではないかと、つい思ったりしてしまいます。

 未見ですが『女学生記』と『わたし達はこんなに働いてゐる』 - 指田文夫の「さすらい日乗」ドキュメンタリー映像集成(第1期) | 公益社団法人 映像文化製作者連盟 / JAPAN ASSOCIATION OF AUDIOVISUAL PRODUCERS, INC.の「否定的な感想」の方が恐らく正しいでしょう。「この種のウヨ」とは話し合っても「わかり合える」とは全く思えません。

藤原智子さんと渋谷昶子さん - 指田文夫の「さすらい日乗」2023.3.5
 昨日の午後は、ずっと国立映画アーカイブにいて、「女性映画人の仕事」を見ていた。
 かつて日本の映画界は、完全な「男社会」で、撮影所にいる女性は、女優を別にすれば、スクリプターと結髪だけで、編集者もいたが、これは撮影所とは別だったようだ。
 だから、スクリプター・記録の方と結婚している映画監督は多く、大映森一生東宝本多猪四郎がそうだ。
 はじめは、監督杉原せつで、1964年の『冬の日、ごごのこと』という、少女が町で犬と逸れるが、多くの人の助けで再会できるという呆れるほどの作品。これは、なんと「小さな親切運動」のPR映画なのだ。そこには、クリーニング屋の小僧として松山政路が、町の若者として東野英心が見えた。
 藤原智子監督の1960年の『オランウータンの知恵』は、多摩動物公園のメスのオランウータンの生活を描くもので、意外に知恵と思考があることに驚く。また、彼女が非常にいたずら好きなことも興味深かった。
 1963年の『挑戦』は、渋谷昶子監督の、「東洋の魔女」と言われた、日紡貝塚女子バレーボールチームの日頃の訓練を描くもので、「鬼の大松」の練習は異常に過酷だが、1960年代のすべての分野で努力していた日本人の象徴のように見え、前年のモスクワでの世界大会でソ連を破って優勝するシーンには、さすがに涙が出た。
 最後は、『わが映画人生・藤原智子』で、インタビューアーは、渋谷昶子監督。
 卒業は、1955年で、空前の不況の就職難で、なんとか新理研映画に入る。同時に東大から新理研に入ったのには、松本俊夫がいる。松本によれば、新理研の社長は、社会党右派の議員*43で、ひどい人間だったので、すぐに労働争議が起き、当然にも組合は敗北して、藤原さんは、その「元気」を買われて日映新社に移る。
 日映で、『オランウータンの知恵』を撮ったが、当時五社*44ではメインの劇映画の添え物として短編を付けていて、それも添え物の候補になったが、親会社の東宝が「これでは、あまりに地味すぎる」と言って公開されなかった。ところが、映画評論家の荻昌弘*45らが、「これを公開しないのは、まさに猿知恵だ」と言ってくれて公開されたこと。
 その後、出産、子育てで現場を離れるが、企画やデスクワークで、会社に残り、子供が大学生になったので復帰するが、安月給だった。その時、日映の重役から、「社員ではなくフリーならば、もっと出す」と言われフリーになる。

『泣いた赤おに』と『セロ弾きのゴーシュ』の孤独 - 指田文夫の「さすらい日乗」2023.3.23
 一昨日の国立映画アーカイブで、(ボーガス注:1934年公開、野村芳亭*46監督、田中絹代、岡譲二主演の)『婦系図*47』の前に見たのは、アニメーション作家神保まつえの作品だった。
 彼女は、学習研究社映画で、主に人形アニメで活躍した女性監督だった。
 中では、『セロ弾きのゴーシュ』と『泣いた赤おに』の孤独さが、胸にしみた。

大久保正信さんの普通の顔を初めて見た - 指田文夫の「さすらい日乗」2023.3.27
 女性映画人の最後の日、学研映画社作品『結婚する娘へ 父の愛』を見るが、主役の鉄鋼所で働く父親は、大久保正信さんで、初めて普通の顔を見た。工場の現場の奥には、モノレールの鉄路が見えるので、大田区蒲田のロケだと思う。
 この人は、森谷司郎監督の『首*48』で、有名な方で、容貌魁偉な役なのだが、ここでは普通の役をやっていた。娘さんたちも知らない人達で、多分大久保さんがいた劇団の文化座の人だろうと思う。監督は、スクリプターだった城田孝子で、脚本は廣澤栄で、かなり東宝的に見える。それもそのはず、城田さんは、もともとは東宝の人だったのだ。
 これの前に上映された『おなじ太陽の下で』は、女優望月優子さんの監督2本目*49で、黒人への差別、偏見をテーマにしている。主演の女優は、高田敏江だと思っていたら、望月さんの姪*50の中村雅子*51だった。共演の南廣が能天気で笑える。小学生たちが見学に行くのが、江の島で、ここには遊園地があったのだと知る。

◆ 上映のご案内 ◆『猫の散歩』(国立映画アーカイブ) | 桜映画社
 国立映画アーカイブで開催される上映企画「日本の女性映画人(1)―無声映画期から1960年代まで」にて弊社制作作品『猫の散歩』が上映されます。是非この機会にご鑑賞ください。
◆上映日程:2023年2月28日(火) 19:00 / 2023年3月4日(土) 15:40
【作品概要】
『猫の散歩*52』( 35mm / 白黒 / 26分 ) 企画 中外製薬株式会社
(脚)岡野薫子*53(編集)沼崎梅子(監)大橋秀夫(監修)山本嘉次郎
(原)上田忠信(撮)安承玟(音響)大野松雄(声)髙橋和枝
・衛生問題のPR映画として、野良猫の視点から真夏の害虫騒動を物語る。

猫の散歩 1962年 櫻映画社 - 日本映画1920-1960年代の備忘録2021.5.27
 昭和37年、野良猫からみた人間の物語。当時小児麻痺が問題となっていたらしく、人々の公衆衛生観念がよくわかる。
 なんと監修が山本嘉次郎
 ちなみに猫の声はサザエさんのカツオ役の高橋和枝という人だという。

*1:1999年、運輸一般労働組合、建設一般労働組合と合同して「全日本建設交運一般労働組合」(建交労)を結成、その中の鉄道本部となる(全国鉄動力車労働組合 - Wikipedia参照)

*2:1923~1995年。1986年に小説『聳ゆるマスト』で多喜二・百合子賞を受賞。著書『不屈の青春:戦前共産党員の群像』(1984年、新日本出版社)、『革命と青春:戦前共産党員の群像』(1985年、新日本出版社)、『発掘・木崎争議』(1989年、新日本出版社)など(山岸一章 - Wikipedia参照)

*3:著書『科学映画と私:ある女流映画監督の回想』(2008年、文芸社

*4:著書『私の記録映画人生』(2014年、岩波現代文庫

*5:カンヌ国際映画祭で最高賞であるグランプリ、アカデミー賞で衣裳デザイン賞(和田三造)を受賞(地獄門 - Wikipedia参照)

*6:その後も『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』(1957年)、『錆びたナイフ』『陽のあたる坂道』『風速40米』『赤い波止場』(1958年)、『若い川の流れ』『今日に生きる』『清水の暴れん坊』(1959年)、『鉄火場の風』『青年の樹』『闘牛に賭ける男』(1960年)で裕次郎と共演。1960年に裕次郎と結婚し女優引退(石原まき子 - Wikipedia参照)

*7:1915~2009年。1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹歌劇団)に第1期生として入団。「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は映画女優などを経て映画プロデューサーとなり、石原裕次郎主演映画『太陽の季節』、『狂った果実』(1956年)、坂本九主演映画『上を向いて歩こう』(1962年)等の製作に関わった。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度(1953年、1957年)務めたほか、NHKジェスチャー』(1953~1968年)紅組キャプテン、NET(現在のテレビ朝日)『独占!女の60分』(1975~1987年)司会などを務めた。50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」スキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退。晩年は、2004年5月26日にテレビ朝日の番組「時代を作った女たち」に11年ぶりにテレビ出演をした以降は、松竹歌劇団OG会にも一切出席することなく、ほとんど隠居的な生活を送っていたという(水の江瀧子 - Wikipedia参照)。

*8:著書『完本天気待ち:監督・黒澤明とともに』(2016年、草思社文庫)、『蜥蜴の尻っぽ:とっておき映画の話』(2021年、草思社文庫)

*9:日経新聞大津支局長、文化部次長、京都支局長などを経て、2010年から編集委員。著書『1秒24コマの美:黒澤明小津安二郎溝口健二』(2010年、日経BP社)、『時代劇が前衛だった:牧野省三衣笠貞之助伊藤大輔伊丹万作山中貞雄』(2022年、淡交社

*10:因みに第二号は田中絹代とされる。

*11:上映作品は編集を担当した『浪華悲歌』(1936年)、監督作品『開拓の花嫁』(1943年)

*12:上映作品は監督作品『乳房よ永遠なれ』(1955年)

*13:上映作品は監督作品『おなじ太陽の下で』(1962年)

*14:上映作品は脚本作品『キクとイサム』(1959年)。この映画については以前、新刊紹介:「歴史評論」3月号(その2:今井正『キクとイサム』、森村誠一『人間の証明』について、ほか:ネタバレあり) - bogus-simotukareのブログで触れました。「党員監督」今井正の映画なので割と前衛記事では詳しく触れています。

*15:上映映画は脚本作品『乳房よ永遠なれ』(1955年)

*16:上映作品は編集を担当した『女性の勝利』(1946年)、『夕やけ雲』(1956年)。杉原よ志 | 日本映画における女性パイオニア白痴 (1951年の映画) - Wikipedia によれば黒沢明が「大船(ボーガス注:松竹大船撮影所のこと)に過ぎたるものが二つあり、杉原よ志(『白痴』で編集)に野村芳太郎(『白痴』で助監督)(元ネタは「(石田)三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近佐和山の城」「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の兜に本多平八」など)と語ったという伝説があるとのこと。また大島デビュー映画『愛と希望の街』についても杉原よ志さんが援護射撃、「現実はその通りじゃないですか」 | Jappy! 昭和クラブによれば、『この作品の試写で、所長が「これじゃまるで(ボーガス注:左翼の)傾向映画だ。これを観たら、金持ちと貧乏人は永久に和解できないごとく見えるじゃないか!」と批判したら、編集の杉原よ志さんが「だって、実際現実はその通りじゃないですか」と言ってくれて、大島さんが大いに勇気づけられたというのは、あまりに有名なエピソードです 』とのこと。これらの逸話からは杉原が実力者として一目置かれていたことが窺えます。

*17:上映作品は衣裳デザインを担当した『狂った果実』(1956年)

*18:上映作品は脚本作品『親』(1929年)

*19:「除けば」ねえ(苦笑)。今や『少女小説家としての水島あやめ』も忘れられてると思いますが。なお、「水島あやめ」でググったら因幡純雄『水島あやめの生涯:日本初の女流脚本家・少女小説作家』(2019年、銀の鈴社)という評伝がヒットしました。

*20:1875~1926年。出演映画として『忠臣蔵』(1910年、大石内蔵助役)、『実録忠臣蔵』(1921年大石内蔵助役)、『落花の舞』(1925年、清水次郎長役)、『鞍馬天狗』(1925年、鞍馬天狗役)、『荒木又右衛門』(1925年、荒木又右衛門役)、『中山安兵衛』(1925年、中山安兵衛役)など(尾上松之助 - Wikipedia参照)

*21:上映作品は脚本作品『宮本武藏』(1929年)

*22:『チョコレートと兵隊』(1938年)以外に脚本作品として今回『母の微笑』(1934年)、『お父さんの歌時計』(1937年)、『軍國スケッチ・銃後』(1938年)、『花つみ日記』、『幼き者の旗』(1939年)、『女學生記』(1941年)を上映

*23:上映作品は石山名義の脚本作品『新しい歌声』(1950年)、『産業科学映画大系・化学せんい』(1951年)(どちらも東宝教育映画)

*24:上映映画はかんけ(菅家)名義の監督作品『友だちのできない子』(1957年)、『8ミリと教室』(1958年)、『ガジュマルは生きている:沖縄・小笠原の返還を目指して』(1965年:なお、小笠原返還は1968年、沖縄返還は1972年)、『鳴らせ自由の号笛:人権と民主主義を守るたたかい』(1975年、全動労のたたかいを記録する会)

*25:1922~2012年。元動労委員長。社会党参院議員(1974~1986年まで2期12年)

*26:1936~2010年。動労青年部長、東京地方本部書記長、委員長、鉄道労連(後のJR総連)副委員長、JR東日本鉄労(後のJR東日本労組)委員長、JR東日本労組会長、JR総連顧問、JR東日本労組顧問など歴任。松崎ら動労主流派によって「共産党系活動家」として排除された者達が1974年に全動労を結成、「中核派系活動家」として排除された者達が1979年に動労千葉を結成して、動労は分裂した。革マル派結成時の副議長であったことは松崎本人も認めている(松崎明松崎明秘録』(2008年、同時代社))が、1970年代から次第に革マル派から離れ、JR総連幹部になった頃には関係は切れたと松崎は主張している。(松崎明 - Wikipedia参照)

*27:著書『スキャンダルを追え!「噂の真相」トップ屋稼業』(2001年、講談社)、『襲撃:中田カウスの1000日戦争』(2009年、朝日新聞出版)など

*28:日本経済新聞社シンガポール特派員、社会部長。 副社長、テレビ大阪会長など歴任。著書『特務機関長許斐氏利』(2010年、ウェッジ)、『不屈の春雷:十河信二とその時代』(2013年、ウェッジ)、『満蒙開拓、夢はるかなり:加藤完治と東宮鐵男』(2015年、ウェッジ)、『昭和解体:国鉄分割・民営化30年目の真実』(2017年、講談社)など

*29:松崎が属したとされる革マル派のこと

*30:ドキュメンタリー映画監督(菅家陳彦 - Wikipedia参照)

*31:加藤勝信官房長官、紙智子参院議員(共産)、福島瑞穂社民党党首、保坂展人世田谷区長などが1955年生まれであり、松竹としては「志位が俺を厚遇してくれれば彼らのように政治家になれた」という恨みがあるのではないか?

*32:むしろ奴が主張してるのはそれよりも「日米安保容認」「敵基地攻撃能力容認」などの右翼的安保主張であり、公選論は「バカどもにはちょうどいい目くらましだ(ムスカ)」と思いますが。

*33:他の問題はともかく、松竹除名は「反党分子が当然の処分を受けただけ」の話です。むしろ、いきなり外部から攻撃を開始した松竹のやり口の方が「党内民主主義に反する」のではないか。

*34:特に「右翼的安保政策」はそうでしょう。

*35:例えば昔のドラマに、横田めぐみさんのポスターが映っていた(お断りあり) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2017.2.8)がそうです。

*36:タイトルの「杉の子」は、童謡の「お山の杉の子」が疎開童児らの愛唱歌であったことから付けられた。

*37:著書『1945年のクリスマス:日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(2016年、朝日文庫

*38:2008年(平成20年)4月1日、ライブラリー業務を東宝ステラに移管し、2009年(平成21年)4月24日をもって解散(日本映画新社 - Wikipedia参照)

*39:1911~1987年。1955年に、東京都立朝鮮人学校閉鎖を取材し、在日朝鮮人学校全国PTA連合会、在日朝鮮人教育者同盟、在日朝鮮映画人集団による「朝鮮の子製作委員会」製作によるドキュメンタリー映画『朝鮮の子』を監督。2005年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で、監督作『朝鮮の子』が、2006年、日本記録映画作家協会が主催した「日本記録映画作家協会50周年記念映画祭」で、監督作『われわれは監視する:核基地横須賀』が上映された(荒井英郎 - Wikipedia参照)。

*40:1961年12月号から、日本共産党中央委員会を発行元として創刊。1976年に、発行元を新日本出版社に変更。しかし、部数の低迷から1993年3月号を以って休刊(文化評論 - Wikipedia参照)

*41:1944年公開。太平洋戦争中に軍需工場で働く女子挺身隊の少女たちを描いた作品。主演の矢口陽子は公開翌年に黒澤と結婚し女優を引退(一番美しく - Wikipedia参照)

*42:嘘ではないでしょうが、まともな精神状態ともおよそ言えないでしょう。

*43:中崎敏 - Wikipediaのこと

*44:松竹、東宝大映、新東宝東映

*45:1925~1988年。KRテレビ(後のTBSテレビ)『映画の窓』でレギュラー司会者として映画解説を担当。日本の映画評論家でテレビのレギュラー番組を持ったのは、荻が最初と言われる。1970年4月から1987年9月までTBSテレビ『月曜ロードショー』の解説者を務め、同番組終了後、1987年10月から同局の火曜日の『ザ・ロードショー』の解説者を務め、1988年(没年)の5月に体調不良で休むまで続けた。(荻昌弘 - Wikipedia参照)。

*46:1880~1934年。1921年に松竹蒲田撮影所所長に監督兼任で就任。1924年、松竹下加茂撮影所所長へ移動して時代劇映画を撮るが、1926年に再び蒲田に戻り、以降は現代劇部筆頭監督として活躍。映画監督の野村芳太郎(1919~2005年)は息子(野村芳亭 - Wikipedia参照)

*47:ただしこの上映会では「日本最初の女性スクリプター・坂井羊子」の関わった作品としての上映

*48:弁護士・正木ひろしの著書『弁護士』を原作として、1944年に発生した首なし事件を描いた作品(橋本忍・脚本)。小林桂樹正木ひろしを演じた(首 (曖昧さ回避) - Wikipedia参照)。

*49:1本目が『海を渡る友情』です。この映画については新潟へ遠征して、北朝鮮人権映画祭を観てきた(初日のみ)(海を渡る友情) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)を紹介しておきます。

*50:原文のまま。実際は妹です。

*51:1958年に映画『米』で親子役(加藤は1913年生まれ、中村は1939年生まれ)で共演した加藤嘉と結婚し、女優引退

*52:1962年公開。この上映会では他にも岡野脚本映画として『花と昆虫』(1956年)、『受胎の神秘』(1958年)を上映

*53:1929~2022年。著書『科学映画にかけた夢』(1999年、草思社)、『太平洋戦争下の学校生活』(2000年、平凡社ライブラリー)、『坪田譲治ともうひとつの「びわ実学校」』(2011年、平凡社)など(岡野薫子 - Wikipedia参照)