珍右翼・黒坂真に悪口する(2025年1月2日分)

◆黒坂ツイート

黒坂真
 昭和7、8年頃の日本人が国際共産党日本支部の呼びかけに応えてプロレタリア赤衛軍をつくり、内乱を起こしていたら、ソ連赤軍が日本に侵攻したでしょうね。日本のソ連化です。

 馬鹿馬鹿しくて話になりません。当時の共産党はそんなことを計画してないし、実行する力もなかった。
 むしろ実際に当時、起こった内乱は「515事件*1昭和7年(1932年)。三上卓*2海軍中尉らが犬養首相を暗殺)」「226事件昭和11年(1936年)。中橋基明陸軍中尉らが高橋蔵相を、高橋太郎陸軍少尉、安田優陸軍少尉らが斎藤内大臣、渡辺陸軍教育総監を暗殺。実行犯の多くは後に死刑判決)」という「軍部タカ派(515が海軍、226が陸軍)」によるものでした(勿論、226事件は短期で鎮圧されましたが)。
 515事件は実行者達の力不足で、単なるテロ事件に終わりましたが、本来は「226事件のようなクーデターによる軍部政権樹立(226の実行者達は真崎甚三郎元陸軍教育総監を首相にすることを狙った)」が目的でした。

黒坂真
 山添拓議員は、日本共産党が日韓会談、日韓条約に大反対した事を御存知ないようですね。
◆山添拓事務所
 在日本大韓民国民団の「2025新年会」に#吉良よし子 #本村伸子両議員と参加。
 「日本の侵略戦争終結、韓国の光復80年、日韓国交正常化60年の特別な年。日韓友好、東アジアの平和と安定、一人ひとりの尊厳と多様性を尊重する社会のために、一致点を大切にして全力で頑張りたい」と#山添拓議員。

 日韓条約当時の韓国は「朴正熙軍事独裁政権」であるから、当時の日本共産党は国交正常化に反対したのであり、一方、山添氏が「日韓友好」を語る「今の韓国」は「民主化されている」。前提が大きく違うので、黒坂の物言いは言いがかりでしかない。

黒坂真
 志位さんの新春インタビューを半分くらい見ました。志位さんは対話と包摂により平和をつくろうと強調しています。それなら日本共産党をインターネットで批判する人をネトウヨと把握することをやめるべきです。
激動の世界 希望ある未来/志位議長が大いに語る

 「引用は省略します」が、志位氏が論じてるのは国家間関係、特に「隣国で、重要な貿易相手国でもある中国や韓国等との関係(日本の場合)」「お互い隣国である韓国と北朝鮮、中国と台湾、イランとイスラエルの関係」です。
 そういう関係で「日本が中国、韓国と敵対する(例:国交断絶)」「韓国と北朝鮮(中国と台湾、イランとイスラエル)が敵対する(例:戦争)」というのは現実的ではない。嫌でも付き合わざるを得ない。
 一方「共産党」は「ネトウヨネット右翼)」と付き合う必要性はどこにもない。詭弁にも程があります。
 断っておけば「嫌でも付き合わざるを得ない」というのは「全く批判しない」と言う意味では勿論ありません。「敵対関係(国交断絶や戦争が典型的ですが)にならない」と言う意味です。
 なお、「共産党関係者」が「共産批判者」を軒並みに「ネトウヨ」呼ばわりしてる事実は勿論ない。
 例えばわかりやすい例で言えば、「除籍した反党分子」松竹や紙屋をさすがにネトウヨ呼ばわりはしないでしょう。
 また「極左過激派」も当然「ネトウヨ」呼ばわりはしないでしょう。
 「共産批判者」のうち「歴史修正主義大東亜戦争聖戦論、南京事件否定論など)」「靖国肯定論」「日本核武装論」「排外主義(在日朝鮮人クルドへの差別)」「LGBT差別」等、明らかに「極右的な主張」をしてる人間がネトウヨ評価されるわけです。

*1:515事件当時(1932年)は陸軍大臣(犬養内閣)は皇道派荒木貞夫であり、皇道派青年将校は荒木に期待したため、515事件を起こした海軍タカ派と違い、危ない橋を渡る必要はありませんでした。また皇道派 - Wikipediaに指摘があるが、荒木大臣によって、柳川平助陸軍次官(ポスト荒木の林陸軍大臣でも次官を務めるが、その後、台湾軍司令官に任命され中央から外される。226事件後に予備役編入。その後、召集され第10軍司令官として南京攻略戦に参加。また第二次近衛内閣司法相、大政翼賛会副総裁など歴任)、山岡重厚軍務局長(荒木の大臣辞任後、永田鉄山の軍務局長就任によって整備局長に異動。永田暗殺後、第9師団長に左遷され、226事件後に予備役編入)、松浦淳六郎人事局長(荒木の大臣辞任後、第10師団長に左遷され、226事件後に予備役編入。その後、1938年(昭和13年)5月に召集され第106師団長に就任し、武漢作戦、南昌作戦に参加)と陸軍幹部連が皇道派で占められる一方、統制派が要職から外されました。しかし荒木が1934年に大臣を辞め、統制派(永田鉄山陸軍省軍務局長など)が陸軍の実権を握り、陸軍士官学校事件(1934年:発生した時期から11月事件とも呼ぶ)で皇道派磯部浅一、村中孝次が免職されると、追い込まれた皇道派は永田暗殺(1935年)、226事件(1936年)と暴走し、自滅していきます。

*2:1905~1971年。1933年(昭和8年)、禁固15年の判決を受けるが、1938年(昭和13年)に仮出所。1943年(昭和18年)に大日本翼賛壮年団理事に就任。1949年(昭和24年)に海烈号事件(香港との密貿易)で逮捕され、1950年(昭和25年)に懲役5年の判決を受け服役。1961年(昭和36年)に三無事件で逮捕されるが、起訴猶予で釈放