「トランプ・ファースト」はどこに向かうのか - 高世仁のジャーナルな日々
第一次世界大戦の敗北の教訓と反省から作られたきわめて民主的なワイマール憲法のもとで、国民は既得権層の支配の打倒と抜本的な改革を訴えるヒトラーとナチ党を選んだのである。
近年の、とくに昨年の選挙結果を見ると、選挙を通じて独裁が現れるということが現実的な可能性として見えてくる。近代史を学び直そう。
こういう「ナチス」「ワイマール共和国」の描き方は私見ではかなり問題がありますね。
第一に拙記事で以前
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ワイマル共和国の問題点としてよく指摘されるのが大統領権限の強大さです(ヒトラーが首相となったのもヒンデンブルク大統領が彼を支持したから)。
と書いたようにヒトラーは「既得権益層」ヒンデンブルク大統領の指名で首相になりました。
ヒンデンブルクは「社民党や共産党に脅威を感じる保守派(既得権益層)」であり、「保守派(既得権益層)がヒトラーを選んだ」「ヒトラー政権初期においては社民党や共産党も一定の力を有し、ナチ党は相対的な第一党でしかなかった」という事実を軽視すべきではないでしょう。トランプにしても同様に「既得権益層」の支持がむしろ大きいかもしれない。
第二にきわめて民主的なワイマール憲法とする高世ですが、過去の拙記事で
新刊紹介:「歴史評論」2024年5月号 - bogus-simotukareのブログ
ワイマール共和国誕生当初、社民党党首で首相のエーベルトがドイツ義勇軍によるカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク*1(ドイツ共産党)虐殺を容認し、ヒトラー(政敵を暗殺した「長いナイフの夜事件」)と同一視はできないにしても、「虐殺容認の黒歴史」があり、それが、「長いナイフの夜事件」など後世に悪影響を残したのではないかとされます。
エーベルトについてはフリードリヒ・エーベルト - Wikipedia
ドイツ史上初の民選大統領ということで、現在のドイツでは多くの町で大通りに彼の名前が冠されている。一方でエーベルトは今日まで非常に論争の的になっている人物である。後のヒンデンブルク(106回)を上回る回数(136回)でワイマール憲法第48条に基づく大統領令を濫発し、左派労働者の暴動をドイツ義勇軍を使って抑制したため、治安維持という点では一応の評価をされている一方、左派からは「ナチス躍進の一因を作った」と批判の対象とされている。ということで左派からは「大統領令を乱発したり、ドイツ義勇軍*2を左派弾圧に使ったりしたことで、ナチ独裁の一因を作った人物」として批判が強いことを指摘しておきます。但し、一方で右派からは「エーベルトとヒトラーは違う」「エーベルトの強権発動は当時としては必要悪だった」と言う反論もされています。エーベルト評価は「ワイマル共和国評価」や「ナチ評価」とも関係する重要なポイントと言えます。
なお、昨今では「何故1933年にナチが復権したのか?(ワイマル共和国には重大な欠陥があったのではないか?)」と言う問題の立て方はドイツにおいて、必ずしも「昔ほど強くない」気がします。
むしろ「ドイツは1923年以降、政治的混乱で、何時、ナチ的な右翼政権が誕生してもおかしくないところ、10年もワイマル体制を維持できた」という「昔よりはワイマル共和国について肯定的(?)な評価」が強まっている気がします。それは「戦前美化の動きが自民党などから目立つ」日本同様、ドイツにおいても「反省疲れ」があるのかもしれません。その「反省疲れ」の反映としての「極右勢力(近年、伸張が著しく「ドイツの大阪維新、国民戦線(フランス)」といっていい国政野党で極右政党「ドイツのための選択肢」)の最近の伸張」かもしれない。勿論「ワイマル共和国」に「1927年の失業保険法成立」など、「評価に値する点」があるのは事実ですし、「ワイマル共和国への肯定的評価」と「戦前日本美化」は同一視できませんが。
と書いたように、そうした見方(民主的なワイマル共和国でナチスが誕生した)は現在のナチ研究、ワイマール共和国研究においては一般的な見方とは言えず、むしろ批判されています。むしろ「ワイマル共和国はそれほど民主的でないから、ナチが誕生した」と言う見方が強まっている。
第三にヒトラーが陰謀で共産党を弾圧した「ドイツ国会議事堂放火事件 - Wikipedia(1933年3月以降)」や「SA(突撃隊)トップのレーム*3」「シュライヒャー前首相(ヒトラーを打倒して首相に返り咲こうとしているという噂があった)」等、政敵を非合法に暗殺した「長いナイフの夜 - Wikipedia」(1934年6月30日~7月2日)を忘れてはいけない。ヒトラーは最初から絶大な支持があったわけではなく、だからこそ彼は暴力や陰謀も発動せざるを得ませんでした。
そしてこうした暗殺を
長いナイフの夜 - Wikipedia
ヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相がヒトラーに感謝の意を表明した。7月2日にはヒンデンブルク大統領の署名付き祝電がヒトラーに送られた(ただしこの文書は大統領の側近である大統領官房長オットー・マイスナーと、大統領の息子のオスカー・フォン・ヒンデンブルク大佐が作成したものとされる)。
7月3日には緊急閣議が開かれた。ブロンベルク国防相が軍を代表してヒトラー首相に賛辞を捧げた。
としてヒンデンブルク大統領ら保守層は容認しました。ヒトラー自身は「長いナイフの夜」についてヒンデンブルクら保守層が反発して、ヒトラー政権打倒に動くことを最後まで恐れていた(但し、最終的にはヒンデンブルクなど保守派は反発せず容認すると読んで暴力を発動し、読みは結果的に当たった)とされますし、実際、ヒンデンブルクら保守層が「ヒトラー打倒」でこの時に動けば、ヒトラーが失脚した可能性は十分あったでしょう。
なお、長いナイフの夜 - Wikipediaによれば「長いナイフの夜」の「成功」がスターリンに「大粛清発動(時期的には『長いナイフの夜』より後)」を決意させた疑いがあるそうです。
*1:1871~1919年。著書『ローザ・ルクセンブルクの手紙』(1987年、岩波文庫)、『経済学入門』(1991年、岩波文庫や2018年、御茶の水書房)、『資本蓄積論』(1997年、同時代社)、『ポーランドの産業的発展』(2011年、御茶の水書房)等
*2:突撃隊指揮官エルンスト・レーム(「長いナイフの夜事件」によりヒトラーが暗殺)、親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラー(後に自殺)、アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス(戦後、絞首刑)など、ナチ幹部の多くは義勇軍の出身者であった(ドイツ義勇軍 - Wikipedia参照)
*3:1)当時、プロイセン州首相のゲーリング(戦後、戦犯裁判で死刑判決を受け自殺)、SS(親衛隊)トップのヒムラー(戦後、自殺)などレームと対立するナチ幹部、2)レームの突撃隊が国防軍に取って代わろうとしていると見なした国防軍幹部(ナチ幹部ではない)がレーム粛清を要求したため、ヒトラーはレームを暗殺したが彼自身はレームの自分に対する忠誠心を疑っておらず、粛清には最後まで乗り気でなかったとされる。この逸話で分かるように、他の被害者はともかくレーム粛清についてはゲーリングらナチ幹部だけでなく保守層(国防軍)自身がヒトラーに要望していました(長いナイフの夜 - Wikipedia参照)