新刊紹介:「歴史評論」9月号(副題:映画『樺太1945年夏 氷雪の門』、『焼肉ドラゴン』、開高健『日本三文オペラ』などの簡単な紹介(?)があります)

 詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
 ということで今回は特集『中世村落史研究のフロンティア』については小生の無能のため、紹介はしません。『中世村落史研究』なんてのはあまりにも内容が専門的すぎて、ちょっと内容の理解が俺には困難ですね。
◆文化の窓(リレー連載:川から見る風景⑤)「中国の『川』はどこへ行った?」(濱川栄*1
(内容紹介)
 筆者は日本では「関東を流れる利根川」「鵜飼いで知られる長良川」「最後の清流と呼ばれる四万十川」など「川」と言う表記を用いるのに対し、中国では「黄河」「揚子江」「黒竜江」など、「河」「江」がもっぱら使われるように思うが、こうした違いが何故生まれたのか、今後研究していきたいとしている。
 うーん、しかし、これ、そもそも「中国認識」として正しいんでしょうか、どうなんでしょうか、教えて、偉い人。
 というか、日本において「川」と「河」の使い分けがよく分からないんですが。


◆書評:原口大輔著『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制*2』(評者・後藤致人*3
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』 原口大輔著 : 書評 : 本よみうり堂 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン
 議院内閣制を定めなかった帝国憲法のもとでは、へたをすると内閣・衆議院貴族院三者がにらみあい、国家権力が空中分解する危機すら招きかねなかった。
 そこで調整役として、貴族院議長が大きな役割を果たしていたことを、この本は明らかにする。主役は明治の末から一九三〇年代の政党内閣期まで、長く議長を務めた徳川家達(いえさと)。「公平」と誰もが称した人柄によって、政府と貴・衆両院とのあいだの調整に努力し、政党内閣の時代には貴族院が「第二院」の立場にとどまるように工夫した。

 つまりは貴族院とは「設置当初の政府の思惑はともかく」、その後は「ある種の協調路線」を目指したので、単に「衆議院や政党内閣に対立する民主政治の疎外物」と見なすべきでは無い(もちろん利害対立は当然ありますし、国民が選んでいるわけでは無い貴族院は民主的な存在とは言えませんが)というのが原口著書のスタンスなのでしょう。
 後藤書評によれば、そうしたスタンスの研究としては他にも内藤一成*4貴族院と立憲政治』(2005年、思文閣出版)、『貴族院』(2008年、同成社)、西尾林太郎*5大正デモクラシーの時代と貴族院』(2005年、成文堂)、『大正デモクラシー貴族院改革』(2016年、成文堂)があるとのことです。

徳川家達の生涯と思想たどる 原口大輔さん、政治活動中心に概観|好書好日
 江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)が謹慎した後、御三卿*6の田安家から出て16代徳川宗家を継ぎ、帝国議会貴族院議長を30年にわたり務めた徳川家達(いえさと)(1863~1940)。その生涯を政治活動を中心に概観した『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』(吉田書店)が刊行された。
 著者で日本学術振興会特別研究員(PD)の原口大輔さん(31)は小学生の時、週刊「ビジュアル日本の歴史」で家達の存在を知り、卒業論文にも家達を選んだ。
「あまり知られていないのですが、家達は1914年に天皇からの組閣の大命を固辞しているんです。徳川将軍家の子孫が総理大臣になる可能性があったと知って衝撃でした」
 本では、帝国議会上院である貴族院の議長として家達が行った事績や海軍軍縮会議であるワシントン会議(1921~22年)の全権委員就任と関連の「失言」事件、貴族院書記官長を務めていた頃の日本民俗学の父・柳田国男との確執などを軸に、家達の生涯とその政治思想を紹介していく。
 貴族院議長としての家達は、留学時に見た英国議会を参考に、政治的主張を前面に押し出さず、衆院貴族院の調整を図るという独自のスタンスを貫いた。
「生前の家達は多くの人から『公平』『無色透明』と評され、議長として信頼されていました。徳川宗家が維新後をどう生き抜いたかという視点も含め、もっと光があたるべき人物だと思っています」

【参考】

徳川家達 - Wikipedia1863年8月24日(文久3年7月11日)~1940年(昭和15年)6月5日)
・慶応4年(1868年)4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。
・1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。
明治4年1871年)7月、廃藩置県によって静岡藩知事を免職となり、東京へ移住、千駄ヶ谷に住むことになった。
明治17年1884年)の華族令公布によって公爵を授けられ、明治23年(1890年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員になった。明治36年1903年)12月4日から昭和8年(1933年)6月9日まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた。
大正3年(1914年)3月24日、シーメンス事件によって第1次山本*7内閣が総辞職。同月27日には後継首班の正式候補に挙げられたが、「未だ徳川が政権に表立って関わるのは遠慮すべき」として2日後に辞退。
・1922年、海軍大臣加藤友三郎*8や駐米大使の幣原喜重郎*9などとともにワシントン軍縮会議全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結。国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。
昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任、終生、務める。昭和8年(1933年)6月9日、貴族院議長を辞した(後任議長は近衛文麿*10)。
 ただし、その後も貴族院議員は務め続けた。
◆エピソード
・同性愛の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦することが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年(1917年)頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程)を支払ったという。倉富勇三郎*11牧野伸顕*12から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、伯爵・松浦厚はこれを嫌って家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという。
貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった民俗学者柳田國男*13と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院書記官長を辞職した。両者の不仲の理由について、(ボーガス注:通説は政治的な対立もあったとするが、)潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと岡谷公二*14は推測している。一方、永井和*15は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している。

 ウィキペディアが触れてる「同性愛」の件について、歴史評論書評もネット上の記事も触れてないのは何なんだろうなあと言う気はします(そもそも原口本が触れてないのかもしれませんが)。
 もちろん「下手に触れると同性愛差別になりかねない&徳川家の抗議を招きかねない」とはいえ、同性愛差別が横行していた戦前において、「同性愛者の噂がある人物」が「徳川家当主にして貴族院議長、一時は首相候補にも名前が挙がった」というのはそれ自体「政敵からその種のスキャンダル攻撃を受けて失脚するようなことが何故無かったのか?」等という意味で「大変興味深い話」であり、何らかの形で触れて欲しい気はします。まあ、それはともかく、このエピソードで分かるように同性愛というのは「先天的に決まる物」なので保守派政治家だろうがもちろん同性愛指向はあり得るわけです。

イギリスに留学した徳川家達の話①|原口 大輔|note
 だいぶご無沙汰してました。
 何か研究成果が出たらnoteを投稿する、というのが基本で、それ以外は気ままに、という感じでやっていますが、たまには何か書こうと。
(中略)
 徳川家達明治10年よりイギリスに留学した時のことでも。昨年度の講義で、もう少し掘り下げてやってほしかったとコメントをもらったところでもあります。コメント、ありがとう!
 数え年15歳の家達は、明治10年6月、まだ西南戦争の決着もつかない中、横浜から出帆。5年後に帰国するまで主にイギリスで過ごします。
(中略)
 まだ10代の家達も勉学のため、周りの人々がお殿様として盛り立てる毎日から少し離れた生活を送るため、そしてイギリス貴族のあり方に触れることで今後の「徳川家達」の生き方の指針を探るためといった理由から旅立ったようです。ちょっとうがった見方をすると、不平士族の叛乱に担がれることを周囲が恐れたのではないか、とも思われます。
 と、まぁ、色々書いていたらだいぶ長くなってしまったので、続きはまた今度(?)。

イギリスに留学した徳川家達の話②|原口 大輔|note
 こちらの続きになります。
 イギリスに留学した徳川家達の話①|原口 大輔|note
 6月に横浜を発った家達は8月14日にイギリスに到着。25日にはロンドンからエディンバラへ移動したことが松平春嶽宛の手紙(明治10年8月30日付)に記されています。
 春嶽は松平確堂とともに家達(=徳川宗家)の後見人を任されていたこともあり、家達はことあるごとに春嶽に手紙を送っていました。
 留学中の家達は英語をはじめとする語学の勉強に励み、そして日本の動向を常に気にしていました。今と違って手紙の配達はもちろん、ニュースの伝達にも時間がかかるので、例えば、出立時には未決着だった西南戦争の動向などの情報を春嶽に聞いています。
 また、翌年の大久保利通*16の暗殺を知った家達は、次のように書き送っています。

  I am very sorry to hear that Mr. Kakudo Matsudaira’s son had died few months ago, & I am also sorry to hear that Mr T. Okubo has been assassinated.(明治11年7月7日付書簡、「松平春嶽関係文書」)

 「数ヶ月前の松平確堂の子の死去と大久保利通の暗殺のことは悲痛に堪えない」といった趣旨を述べています。
 この頃になると家達は学修の成果の披露も兼ねて英文の手紙を書くことが増えるのですが、受け取った春嶽が英文を読めたかは不明。というのも、家達の英文書簡については、日本語訳も同時に残されており、これは周囲の人が春嶽のために翻訳したのではないかと考えられます。
 まだ語学のこと以外、家達が留学中何をしていたか全然話が進んでいないのですが、分量が長くなるのもよろしくないので、とりあえずこのあたりで。

 原口氏のnoteを紹介しておきます。


◆書評:石井香江著『電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか*17』(評者・中村江里*18
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。なお、石井著書では「電話交換手が女性の仕事となる」一方で「電信技手が男性の仕事となること」も取り上げられており、その意味では『電信技手はなぜ「男の仕事」になったのか』という内容も含んでいます。
 電信技手が男の仕事であったことについては

情報通信文明史研究会 過去の研究会|情報通信学会 -JSICR-
・「顔が見えない、声が聞こえない」という仕事の特性により、電信業務は男か女かが問題とならない職業であるかにみえるが、実は電信技手という職業 には男性的なイメージが付与されていた。
・電信技手は、「電信マン」「トンツー屋」「タタキ屋」という、男っぽい名前で呼ばれ、女性技手は例外視された。

と言った指摘がネット上にあります。

https://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/doctor/?choice=summary&thesisID=157
◆論文題目:<電話交換手/電信技手>の歴史社会学 ― 近代日独の情報通信技術とジェンダー
◆著者:石井香江 (ISHII, Kae)
◆博士号取得年月日:2006年7月12日、を一部紹介
2. 方法論
 電話交換手の存在に言及する研究は少なからず存在し、この職業が「女性化」した事実について必ずといっていいほど触れてはいるが、その理由や経緯について、説得的な説明が与えられてはいない。その理由としてよく挙げられるのが、女性が一般に低賃金労働者であったという事実の他に、高い女性の声が聞き取り易いばかりでなく、女性の動きは緻密で、加入者に対する対応も丁寧であるという本質主義的な論拠、新しい技術である電話の導入で女性による操作も可能となったという技術決定的な論拠、そして、女性は低賃金である上に管理も容易であり、経営者にとっては好都合であったと、労使関係に目を向ける論拠である。これは、若い男性は電話交換業務を「腰掛け的な仕事」とみなし、経営側の求める規律に従わなかったことが、男性が電話交換業務から締め出され、電信業務に集中した背景だと論じる。いずれの論拠においても、特定の技術と、特定の性別との結びつきが暗黙の内に前提される結果として、結びつく必然性を必ずしも持たない二つの要素が結びつくに至るミクロな過程や機制が、不問に付されているという問題点が確認できる。この、いわばブラック・ボックスの実態を明らかにするために本論文が用いるのが、歴史社会学的な手法に加えて、聞き取り調査という質的方法である。筆者は歴史社会学的な手法を、様々な史資料を渉猟し、当時者に聞き取りを行なうことで得られた事実を、社会学的な視角から分析し、これが長期的なスパンで変容する過程を跡付ける方法であると理解している。この方法を採用するのは、ある特定の時代や地域の詳細な歴史的事実を明らかにすることよりも、長期間に起る変化の相と、その機制を明らかにすることが、本論文の主たる関心だからである。

 石井著書の元となった論文ですね。

第11回女性文化研究賞受賞者発表・贈呈式案内|昭和女子大学 女性文化研究所|昭和女子大学
・第11回(2018年)「女性文化研究賞・女性文化研究奨励賞」(坂東眞理子基金)は、下記の通り決定いたしました。
◆石井香江氏(同志社大学グローバル地域文化学部准教授)
 『電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか:技術とジェンダーの日独比較社会史』(ミネルヴァ書房
・贈呈式を開催いたします
 日時:2019年5月28日(火)17:00~18:30
 会場:昭和女子大学学園本部館3階大会議室
 受賞者石井香江氏による講演「見えないものに迫る方法:電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか」も同時開催です。

坂東眞理子基金第11回「昭和女子大学女性文化研究賞」を石井香江同志社大学准教授に -- 昭和女子大学 - SankeiBiz(サンケイビズ):自分を磨く経済情報サイト
 賞の贈呈式に続いて、石井氏による記念講演「見えないものに迫る方法:電話交換手はなぜ『女の仕事』になったのか」も行われました。
 石井氏は、まず、受賞作の表紙に使った19世紀末のベルリン電話局の様子を描いた絵に基づき、電話交換手は「もともとは男性の仕事で、かつ立って体を使う仕事だった」ことから解き明かしました。従来、女性の仕事になったプロセスは「女性の声の方が感じがよい」というあいまいな表現でしか説明されず、「ブラックボックス」だったため、受賞作では、そのプロセスの見える化を目指したといいます。
 その過程で、史資料にあたると同時に、当時を知る人たちへの聞き取り調査の中で「職場の文化」が浮かびあがり、男性が電信技師、女性が電話交換手と、ジェンダーによって職務が分離していく過程の解明を試みています。
 今後は、受付嬢ロボット、コールセンターなどとの関連も含めて、石井氏は「的確に課題の指摘もいただき、背中を押していただいた。さらに研究に取り組んでいきたい」と抱負を語りました。

日本ドイツ学会奨励賞記録
 2018年度日本ドイツ学会奨励賞は、学会奨励賞選考委員会による慎重な選考を経て、石井香江氏(同志社大学 グローバル地域文化学部 准教授)の
『電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか:技術とジェンダーの日独比較社会史』 (ミネルヴァ書房)に授与されました。
◆選考理由
 受賞作『電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか』は、膨大な人事資料をドイツ、日本双方について丁寧に読み込み、そのデータに基づいて、「電信」「電話」に携わる男女の就労者の生活を描き出し、電話交換手=女というイメージ成立の裏にある歴史を日独対照しつつ明らかにしようとするものである、と纏めることができるでしょう。
 本作は本年5月、昭和女子大学女性文化研究賞の受賞対象になり、石井さんはこの賞を受賞されました。こちらの賞は「男女共同参画社会形成の推進あるいは女性文化研究の発展に寄与する研究を対象」とするものだそうですが、本作の内容は、当然ながら、この賞の対象となるに相応しいものです。しかし、それだけではありません。ある委員は本作について次のように評価しています。
「従来の専門職研究の枠を大きく超える力作。比較ジェンダー史・比較社会史研究の新境地を開いた。」
 歴史学の立場からも、ジェンダー研究の見地からも、社会文化研究あるいは女性文化研究の場から見ても高く評価される本作は、分野の壁を越えた研究を目指すドイツ学会の差し上げる奨励賞の対象として最適であると言ってよいのではないでしょうか。
◆石井香江氏の受賞のあいさつ  
 本書の表紙の絵は、読者の方にとってインパクトが強いようで、関心を持ってくださる方が少なくありません。これは、民衆の日常を描いたドイツの画家ヴェルナー・ツェーメが、19世紀末のベルリンの電話局の様子を描いたものです。電話交換手といえば女性の職業の先駆けであり、女性たちが切り拓いた職業として知られていますが、歴史をたどれば男の仕事として出発しました。この絵は、技術革新を一つの契機として、電話交換手が男性から女性市民層の仕事に移り変わっていく瞬間をとらえた貴重な一枚といえます。
 電話交換手が女の仕事であった事実についてはよく知られていますが、その理由や経緯について、必ずしも説得的な説明がなされてきたわけではありません。本書ではこのブラックボックスに迫るために、逓信省や各地の電信・電話局の公文書、社史、従業員が購読する機関誌や新聞に加え、職場のリアリティを描く回顧録や小説までを検討しました。また日本に関しては聞き取り調査も試みました。
 本書の特徴は電話交換手が女の仕事になっていく過程を、電信技手が男の仕事になっていく過程と表裏一体のものとしてとらえ、関係史的に分析している点です。もう一つの特徴は、日独間の比較史であるという点です。電信・電話は欧米で開発され、ほぼ同時期に世界中に伝播し、世界の隅々を結びました。このため各国は、技術の使い方や担い手についての情報を共有し、互いに参照し合っていたのです。比較の視点は自ずと生まれ、ドイツと日本の間に多くの共通点を発見する一方で、技術革新の速度や「職場文化」の有無、その持続性という相違点も確認できました。
 ただし、日本の職場文化に注目したがゆえに、歴史学では重要と思われるテーマ、例えば二度の世界大戦時の国内外での女性労働の実態を掘り下げることは、あえてしませんでした。電信・電話は重要な軍用技術でもありましたし、女性の戦争への動員というテーマとは切り離せません。こうした課題については、今後あらためて正面から向き合っていくつもりです、と決意表明をさせていただき、私からのご挨拶を終わらせていただきます。本日は誠にありがとうございました。

 ということで昭和女子大学女性文化研究賞、日本ドイツ学会奨励賞も授与された石井著書です。副題から分かるように「日独比較」ということでドイツにおける電話交換手についても検討がされています。

女の本屋 > 著者・編集者からの紹介 > 石井香江著『電話交換手はなぜ「女の仕事」になったのか』 石井香江 | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network
 一般的なイメージとは異なるが、歴史をたどれば電話交換手は元々「男の仕事」であった。電話の技術革新以前は、電話一台で扱える回線数が限られていたために、時に他の交換台に移動するか、拡声器で要件を伝えるかしなければならなかった。一か所に座ってなどいられず、男女とも忙しく立ち働いていたのである。表紙の絵は19世紀末のベルリンの電話局の様子を描いたもので、技術革新を一つの契機として、電話交換手が男性から女性市民層の仕事に徐々に移り変わっていく瞬間をとらえた貴重な一枚である。
 この絵がA面であるとすれば、電信局で働く男性の電信技手の姿を描いた裏表紙の絵はB面である。本書の元々のタイトルは『<電話交換手/電信技手>の歴史社会学』であった。説明がなければ理解できないので、結局タイトルを現在のかたちに変えることにしたが、スラッシュ記号の入った奇抜なタイトルで、本書では電話交換手が「女の仕事」になっていくプロセスを、電信技手が「男の仕事」になっていくプロセスと表裏一体のもの(「性別職務分離」という)としてとらえていることを強調したかった。
 電話交換手が「女の仕事」であった事実についてはよく知られているが、その理由や経緯について、必ずしも説得的な説明がなされてきたわけではない。男女間の賃金格差や仕事への満足感など男女間の不平等の要因ともなる「性別職務分離」であるが、これは果たして男女の能力、身体的特性、職業選択などの「違い」に根ざすものなのだろうか。本書は本質主義的に男女の「違い」を前提にするのではなく、「違い」が制度・実践・言説によって下支えされるプロセスに注目している。さらに、ドイツと日本の事例に注目する比較社会史の方法により、一国史的な枠組みでは見えてはこない観点を探り当てている。
 現在も銀行事務職、介護・育児職をはじめとするさまざまな分野で性別職務分離の存在が確認できる。これとも関連する職業病とジェンダーの関係も注目されてしかるべきだろう。この現状を、変えることのできない運命ではなく、社会問題としてとらえ直し、変えていく道筋をたどろうとしている方に、本書が何がしかのヒントを提供できれば幸いである。

 以上は石井氏ご本人による著書紹介です。
 電話交換手という「現在では消滅した職業」については以下を紹介しておきます。

第1回 電話の普及 その背景にある技術とは|意外と知らない!電話・通信の仕組み|法人のお客さま|NTT東日本
◆電話を手動でつなげていたのを知っていますか!?
 初期の電話サービスは、今と違って“電話番号をかけると相手に直接つながる”というものではありませんでした。では、どういう仕組みで電話をかけていたのでしょう?
 当時は、電話と電話の間に「交換手」と呼ばれる人がいて、その交換手が相手に電話をつなげてくれることによって、電話をすることができたのです。電話機の受話器を上げると交換手につながり、「横浜のAさんにつないでください」と通話先を告げると、交換手が横浜のAさんにつなぐ、という仕組みでした。受話器を上げるだけで交換手につながる仕組みだったため、初期の電話機にはダイヤルがありませんでした。
 電話サービスが始まった当初は、加入者数も現在ほど多くなかったため「交換手」という人の手による取り次ぎが可能でしたが、加入者数や利用回数が多くなるにつれ、取り次ぎが追いつかなくなりました。そうした背景から、1926年から徐々に「交換手」に代わる「自動交換機」が導入されるようになったのです。
 1952年の日本電信電話公社発足当時、市内通話はステップ・バイ・ステップ交換機で自動的につながるようになりましたが、市外通話では依然として交換手が接続業務を行っていました。市外通話は、市内通話に比べて距離が離れていることもあり、各地に点在する自動交換機をいくつも経由して接続する必要があるため、接続に時間がかかる一方、ステップ・バイ・ステップ交換機には、保守が難しく、機器自体の寿命が短く設置・維持にコストがかかるというデメリットがあったためです。
 こうした問題を解消するため、1955年には「クロスバー交換機」が導入されました。

 最後に「日本での女性電話交換手」についての記事(映画『樺太1945年夏 氷雪の門』など)を紹介しておきます。
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(1)
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(2)
靖国神社へ『樺太1945年夏 氷雪の門』を見に行く(3) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
渋谷で「氷雪の門」を見て、二木てるみからサインをもらい握手をしてもらう - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK
・北海道の和寒町の栗山知ゑ子さん(90歳)は、戦時中、樺太の真岡郵便局で電話交換手として働いていました。
・昭和20年、当時17歳だった栗山さんが頼りにしていた先輩は、6歳年上の可香谷シゲさんでした。
・電話は当時、情報をいち早く伝える手段として重要な役割を果たしていて、電話交換手は女性たちにとって、花形の職業でした。
・しかし終戦直後、ソビエト軍樺太に侵攻。楽しい時間は、突然断ち切られました。
 栗山さんは使命感から仕事を続けるつもりでいましたが、母親から頼まれ、家族と共に疎開することにしました。
・その2日後、ソビエト軍が真岡に上陸。可香谷さんら9人は郵便局に残り、電話で戦況を伝え続けました。
 そして「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら」と告げ、青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。
 9人の死を知ったとき、栗山さんは驚くとともに「もし疎開していなければ、自分も薬を飲んで自決していた」と思ったそうです。
 最後まで国に奉仕する教えを受けていた身として、自分だけ自決しない選択肢はなく、栗山さんは自分と9人との間に大きな違いはないと感じています。
 栗山さんは、樺太の対岸の稚内市で、毎年8月の9人の命日に開かれる追悼式典に参加しています。

神戸新聞NEXT|連載・特集|#あちこちのすずさん|「命懸けの仕事だったけど、みんな普通の女の子」殉職した電話交換手たち #あちこちのすずさん
神戸新聞がNHKやネットメディア、全国の地方紙と連携し、「#あちこちのすずさん」と題してネットで募った、戦時中の暮らしにまつわるエピソードを随時紹介していきます。
・戦時中、“通信戦士”と呼ばれた女性たちがいた。
 電話局で電話線を繋ぐ「電話交換手」。数カ月の訓練を受け、難しい試験に通った人だけが就ける狭き門だった。当時、女性にとって花形職業の一つとされていた。
 現在ではなじみの薄い仕事だが、回線同士を繋ぐ交換機が機械化されるまで、電話をかけた人とかけたい相手を繋ぐのは交換手による手作業だった。
 交換手の担い手は10~20代が中心。24時間態勢で、早朝や日勤、宿直と、交代で勤務した。
 情報をいち早く伝える重要な手段だった電話通信。警戒警報や空襲警報が発令されても、彼女たちは通信を守り続けた。
「軍からの連絡が入っています」
「○○地区に爆弾が落ちました」。
 交換台を離れることは許されていなかったという。
 そのため、殉職した交換手が全国各地にいる。


◆書評:黒川みどり*19・山田智著『評伝・竹内好*20』(評者・丸川哲史*21
(内容紹介)
 既に竹内*22についての評伝は

【発行年順:竹内好 - Wikipedia参照】
松本健一竹内好論』(1975年、第三文明社→2005年、岩波現代文庫(改訂版))
鶴見俊輔竹内好 ある方法の伝記』(1995年、リブロポート→2000年、岩波現代文庫
松本健一竹内好「日本のアジア主義」精読』(2000年、岩波現代文庫
・孫歌 『竹内好という問い』(2005年、岩波書店
丸川哲史竹内好』(2010年、河出書房新社

など多数あるわけですが、そうした過去の先行著作との相違点が丸川書評を読んでもよく分からない点が残念なところです。
 また中国史が専門の山田氏はともかく「被差別部落史」が専門の黒川氏がなにゆえ「中国史家・竹内」を論じるのかが丸川書評を読んでもよく分からない点が残念なところです。


◆書評:本岡拓哉著『「不法」なる空間にいきる:占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史*23』(評者・鄭栄桓*24
 本岡氏の著書がテーマにしている物が何かと言えば、
1)開高健の初期作品『日本三文オペラ』(新潮文庫)や小松左京の初期作品『日本アパッチ族』(角川文庫)の元ネタとなった、いわゆる「アパッチ族」や
2)いわゆる「ウトロ地区問題(小生も不勉強なので過去にほとんどこの件に触れてませんが)」のような話ですね。
 もちろん2)のような話はウトロに限定されません(ウトロが「特に有名」なだけです)。
 そもそも在日朝鮮・韓国人にも限定されません。終戦直後のバラックだの闇市だのは明らかに不法占拠ですが、もちろんあれらには日本人も関わっています(東映映画「仁義なき戦い」にも闇市利権を巡る争いが確か出てくる)。多くの「不法占拠」は行政の介入で消滅したわけですが、ウトロのように最近まで残ったところも少数ながらあったわけです。そう言う意味でこの問題は「過去の問題」ではない(まあ、最近増えてるホームレスなども「不法占拠」の一種ではありますが)。
 まあ、確かに法的な意味で言えば違法居住なのかもしれない。しかし、「朝鮮人差別」と言う問題を無視して、「形式的合法性」のみを云々することは妥当ではないだろうと思います。まあ最近のホームレスなんかもそうでしょう。「ホームレスの生活苦」の問題を無視して、「形式的合法性」のみを云々することは妥当ではないでしょう。
 すみません、柄にもなく真面目で。小生、「別に在日問題やホームレス問題に深い関心や知識があるわけでも無い」し「本当はそんなに真面目でも無い」ので、本当はこういう偽善者ぽい事は余り書きたくないんですが、たまにはこういうことも書きます。
 まあ、産経など嫌韓国ウヨの場合「何ら違法でもなんでもない少女像(慰安婦像)」にすら因縁つけるのでそれ以前の話ですが。
 しかし「ウトロ」についてググっても「ウヨ系の嫌韓国・朝鮮記事ばっかヒットする」し、ウィキペディアの「ウトロ」関係記述も明らかに「嫌韓国・朝鮮でおよそ信用できない」ので少々うんざりします。
 何かいい本でもあればいいんですけどね。

【参考:日本三文オペラ

名作の現場:第15回 開高健『日本三文オペラ』 案内人・島田雅彦(その1) - 毎日新聞
 空腹を抱えて「ジャンジャン横町」をうろつくフクスケがモツ丼一杯でスカウトされ、旧大阪砲兵工廠に埋もれている鉄屑を盗み、生計を立てる盗賊集団に加わる導入から、筆は走っている。

名作の現場:第15回 開高健『日本三文オペラ』 案内人・島田雅彦(その2止) - 毎日新聞
 兵(つわもの)どもの夢の跡は大阪環状線大阪城公園駅そばにある。砲兵工廠跡は大阪城城下に当たるところで、再開発によりビル群になっているが、盗んだ鉄骨を運び出すのに渡った平野川(現・第二寝屋川)の淀(よど)んだ流れとアパッチ族の集落があった一角の住宅地は残っている。車が通れない低い鉄橋の下にはつい先日まで不法占拠の住民がいたという。特に名所指定はなされていないが、知る人ぞ知る聖地となっている。

【ベテラン記者のデイリーコラム・福嶋敏雄の川と坂の物語】在日アパッチ族が「笑った」場所 今や副都心『大阪ビジネスパーク』(2/4ページ) - 産経WEST
 戦後、砲兵工廠は廃墟のまま残された。鉄や銅など大量の金属類のカタマリやクズが散乱したまま放置された。朝鮮戦争の特需後の昭和20年代後半、この金属類をもとめ、夜な夜な跡地に入りこむ集団があった。アパッチ族である。
 金属ドロボウのアパッチ族については、よほど作家的な興味がそそられるのか、開高健が『日本三文オペラ』、小松左京が『日本アパッチ族』、梁石日(ヤンソギル)が『夜を賭けて』という作品を、それぞれ書いている。
 もちろん警察官たちとも、たびたび衝突した。警察官を見つけたら、仲間に合図を送らなければならない。その時の合図の声が、「ヒョウヒョウ」とか「ヒャアヒャア」というふうに聞こえた。
 『日本三文オペラ』によると、この合図の声や、警察官をまく機敏な動きなどから、取材に来た新聞記者が「アパッチ族」と命名した、とある。

再開発で「ヒガシ」を 大阪砲兵工廠の遺産(4) :日本経済新聞
 終戦後10年以上も、がれきの山のまま放置されていた大阪砲兵工廠の跡地を舞台に、開高健は「日本三文オペラ」、小松左京は「日本アパッチ族」を書いた。在日韓国・朝鮮人らが夜中に川を越えて入り込み、工廠跡の鉄くずを運び出しては売却した。彼らと警察の攻防を新聞は「アパッチ族」と書き立てた。
 アパッチ族が警察に蹴散らされ、がれきの山も整地されて公園などに生まれ変わったのは1960年代に入ってからだ。
 工廠の敷地のうち現在の大阪ビジネスパークOBP)周辺は1952~1961年に近畿財務局から松下興産(現・MID都市開発)などに払い下げられ、工場や倉庫になっていた。

【石野伸子の読み直し浪花女】青春の開高健(6)新聞もとに“副業”執筆、1年後に芥川賞…早業29歳の「闇」(2/3ページ) - 産経WEST
 (ボーガス注:芥川賞受賞で)開高は一気に注目の作家となる。多忙の中、寿屋*25も退社した。
 しかし、受賞後の気負いと緊張の中で書けない不安に陥り、しばらくうつ状態に陥る。復活したのは、やはり書くことだった。
 久しぶりに帰った大阪で、大阪城に出没する謎の窃盗集団「アパッチ族」の話を聞き、自分のテーマを発見する。
 大阪城にある旧陸軍砲兵工廠跡地に残る鉄の残骸を、掘り起こして売り飛ばそうとする不法集団。そうはさせじと壊滅作戦を展開する警察。社会の最底辺に生きる人々の熱気と狂気。開高は大阪で取材を重ね、作者いわく「ラブレー、スウィフト、関西落語、西鶴」などあらゆる文学的素材を足がかりに書いたという初めての長編だ。
 「日本三文オペラ」は評判を呼び、開高の代表作のひとつとなった。

「アパッチ族」についての小説を読み始めて: ボランチノ-ト
 かつて、JR大阪環状線・森之宮駅周辺、現在の大阪城公園あたりに、当時では東洋で最大の兵器生産工場であった「大阪砲兵工廠」があった。1945年8月14日の大阪大空襲で爆撃を受けてそこは廃墟となった。
 戦後、その跡地の土の下に眠る鉄塊等を夜に掘削、運搬して業者に売って生活を立てていた集団があった。その集団の存在はアメリカインディアン「アパッチ族」を連想させたのだろう? 当時の新聞は「アパッチ族」と名づけて新聞報道した。そこから、「大阪砲兵工廠」跡で暗躍する集団のことを「アパッチ族」と巷でも言われるようになった。
 インターネットで調べてみると、その「アパッチ族」をテーマにした小説は三冊あった。開高健さんの「日本三文オペラ」、小松左京さんの「日本アパッチ族」と、大阪・旧猪飼野大通(旧大成通→現玉津)で育ったわが町の作家・梁石日ヤン・ソギル)さんが書きしるした「夜を賭けて」だった。
 小松左京さんのその作品は新刊書には並んでいなかった。でも他の二冊は文庫本で出ていたので、千日前「ジュンク堂書店」で取り急ぎ買った。

開高健『日本三文オペラ』を読了することと滋賀県が平均寿命でトップ - 現代田んぼ生活 辻井農園日記
 開高健『日本三文オペラ』(新潮文庫)読了する。楽しめました。若い開高健ですな。昭和34年の『文学界』の1月から7月に連載された小説です。まあ私の生まれる前ですからね。開高の作品はたいてい読んでいるつもりなのですが、『日本三文オペラ』は未読だったのです。ええ、開高健のエッセイの中でも開高について書かかれたエッセイや評論のなかでもこのアパッチ族についての話は何度も出てきていましたが縁がなかったんですね。うーむ。そういえば小松左京にも『日本アパッチ族』というのがありますね。ええ未読です。
 1958年、開高は『裸の王様』で芥川賞を受賞したあとノイローゼというか、小説が書けなくなってしまって苦しむのですが、そのころ大阪の旧陸軍工廠跡のあのあたりを取材したみたいですね。大阪城の東側のあたりだそうですが。

【参考:夜を賭けて】

在日の戦後史赤裸々に描く「夜を賭けて」完成 | 在日社会 | ニュース | 東洋経済日報
 戦後、在日韓国人が密集する大阪を舞台に、鉄くずを盗み出す在日集団”アパッチ族”を描いた「夜を賭けて」(原作・梁石日、監督・金守珍)がこのほど完成した。在日の会社経営者、作家、映画・演劇人が「在日の歴史を伝えよう」と、力を合わせて製作した意欲作だ。同映画は(ボーガス注:2002年)11月末、全国ロードショー公開される。
 在日の人気作家、梁石日さんの長編小説「夜を賭けて」が同映画の原作だ。戦後の混乱がまだ続いている1958年の大阪、朝鮮人密集地を舞台に、警察と張り合いながら鉄屑を盗み出して売りさばき、たくましく、かつユーモラスに生き抜く在日の人々の姿を描き出して、直木賞候補にもなった作品だ。
 これにほれ込んだ劇団・新宿梁山泊の座長・金守珍さんが映画初監督を務め、在日の会社アートンの郭允良社長が資金集めを担当、在日の映画会社シネカノン李鳳宇*26社長)が宣伝を担当する。
 オーディションで選ばれた在日3世の青年やパチンコ店経営者も、大事な役どころで出演、スタッフにも新宿梁山泊所属の在日青年が多数参加しており、在日の在日による映画製作となっている。
【あらすじ】
 1958年、戦後の焼け跡が残る大阪。立入禁止の兵器工場跡に忍び込み、鉄屑を運び出して売り払う「アパッチ」と呼ばれる在日韓国人の一団がいた。川沿いに集落を構えて貧しい生活を営む彼らは、警察に追われながら真夜中に鉄を掘り起こす日々を続ける。しかし、次第に取締が厳しくなり、ある日大事件が起きる。

【参考:ウトロ問題】

斎藤正樹氏講演会「在日朝鮮人集落・ウトロの居住権確立の活動」 報告 | イベント報告 | IHS 東京大学 多文化共生・統合人間学プログラム
◆日時:2019年5月28日
 本報告は、東京大学大学院IHSプログラムの外村大*27先生の授業で、IHS生も対象とした「在日朝鮮人集落・ウトロの居住権確立の活動」に関する講演について記すものである。講師は、在日朝鮮人が集住している京都府宇治市の「ウトロ地区」で、長年居住権確立の活動を行ってきた斎藤正樹さんである。今回は、ウトロ地区の歴史やこれまでの活動について、ウトロの住民と風景の写真を見せながら、その背後のストーリーを語っていただいた。
 講演では、まずウトロの歴史的経緯について紹介した。第二次世界大戦中、京都飛行場建設工事に従事した朝鮮人労働者と家族たちの飯場が、現在のウトロ地区の前身である。戦後、建設が取りやめになり従事者が失職し、ウトロに行けば最低限の生活は維持できるだろうと考えた人々がやってきて暮らすようになった。しかし、ウトロ地区は不法占拠ということで、長年にわたり水道管の敷設が認められなかった。その後1989年になると、ウトロの土地を所有する西日本殖産は住民に対し、土地を購入するか、しないのであれば退去を求める民事訴訟を起こした。それ以降、ウトロ地区の住民による居住権を求める活動が繰り広げられ、斎藤正樹さんとボランティアたちも運動に参加してきた。斎藤正樹さんは昔学生運動に関わった経験をいかして、ときにはウトロ地区に様々な反対を主張した看板を書いた。2018年、強制立ち退きを阻止して、ウトロ地区の住民たちは新たに建てられた公営住宅に入居することとなり、地区に在住している在日朝鮮人や日本人が共に生きる未来に期待して、新たな看板と壁画に入れ替えた。
 この報告を聞いて、斎藤正樹さんたちの活動を素晴らしいと思う一方、在日外国人の現状について、日本のメディアと若者たちの、歴史認識及び在日朝鮮人に対する無関心さについて深く考えさせられた。残念なのは、ウトロ地区の問題について、テレビやネットを通じた発信がほとんど見られなかったことである。そのゆえに、斎藤正樹さんたちの活動が日本では知られていない。その点について、講演後の質疑応答で「ウトロの居住権確立の活動に若者が参加したか」との問いに対して斎藤さんは、「この活動に参加したのはご年配の方が多くて、若者がほぼいませんでした」と答えた。
 筆者はこの答えを予想していた。私が所属している研究室では、平和や歴史の継承をテーマとしたワークショップが多く行われているが、参加者の年齢層は相当高い。その理由としては、まず若者が歴史に対して興味を持たないからではないだろうか。
 しかしながら、ウトロ地区に暮らす在日朝鮮人のおばあさんが、韓国の人気バラエティー番組の「無限挑戦」に取材され、今韓国の若者がウトロに注目し、わざわざ訪ねて来る人も多くいるそうだ。さらに、ウトロ地区と靖国神社は、韓国の修学旅行のコースの一部にしている学校もあるとのこと。この事例からもわかるように、テレビは若者に対して、韓日の歴史に興味を抱かせる力を持つ一方、日本の若者が歴史や、在日朝鮮人に関心を持たないことの要因の一つに、日本のマスメディアの報道のあり方があるのではないだろうか。
 日本の中国・韓国・北朝鮮に関するニュースの中には、偏った報道が多くみられる。筆者は中国出身であるが、日本のニュース番組や新聞を読むと、おかしいと思うことが多々ある。例えば、「中国には偽札が多く流通しているから、紙幣が汚いから、治安が悪いから」などのネガティヴな理由で、中国のキャッシュレス化が急速に進んだというような報道も多く見かける。キャッシュレス化が進んだ理由が、中国の治安や衛生が悪かったためであり、反対に日本では治安も良く衛生的なので、キャッシュレス化が進まないのは当然だという。このような大衆が望んでいることだけを報道し、大衆の娯楽に徹するメディアは、愚民化政策に手を貸しているだけだと考えられる。また、日本では中国・韓国政府の行なっている反日教育について指摘することが多い。しかし中国のメディアも政府も、日中戦争について取り上げることは確かにあるが、現在の日本の進歩を否定したことはない。一部メディアによるバイアスのかかった報道は、日本の若い視聴者に、中国・韓国・北朝鮮に対する悪いイメージを助長させている。
 もうひとつの理由としては、日本の歴史教育は、第二次世界大戦における日本の戦争責任(日本はアジア諸国を侵略し、植民地支配したことによる責任)に直面していないのではないだろうか。
 日本から見る第二次世界大戦は、被害者の視点になりがちなのではないだろうか。筆者は日本と中国の戦争映画を研究している。日本の戦争映画の7割は(ボーガス注:日中戦争では無く)太平洋戦争を舞台とした作品で、その中のほとんどは(ボーガス注:南京事件731部隊バターン死の行進のような日本の加害や戦争犯罪では無く)アメリカによる空襲や原爆の被害を描いた作品である。
 2017年に出版し、アメリカで話題を集めている小説Pachinko1は、今年、中国語版も出版したが、日本のメディアでは全く取り上げられていない。その理由として考えられるのは、「日本統治下の釜山から始まる在日韓国人ファミリー4世代を描写し、韓国での日本人による現地人への虐めや、在日韓国・朝鮮人への差別、そして単語こそ出てこないが「慰安婦」のリクルートなど、『パチンコ』は日本人にとっては居心地が悪い小説かもしれない 2」という書評である。確かに、筆者はこの小説を読んだとき、日本では出版されないだろうと思った*28
 現在の日本には、在日朝鮮・韓国人だけではなく、様々な外国人も多く暮らしている。これらの在日外国人には、日本人と全く同じ人権を与えられているとはいえない。学校、職場、結婚などの場面で、差別を受けている事例も少なくない。さらに、同調という社会現象によって異論は歓迎されないので、違う文化や人種を受け入れることももちろん難しい。
 このような社会的弱者としての在日外国人の現状と、日本のメディアと若者における歴史認識の欠如、また在日外国人に対する無関心さを変えるためには、まずは日本社会の努力が欠かせない。例えば、家庭や学校教育の場で、小さい頃から異なる意見に対して寛容な態度を持つことを、子供に教えることが大事だと思う。そして、正しい歴史教育を行うことによって、特に戦争に関して歴史の「負」の部分も受け止めることが必要だ。さらに、日本のメディア、特に公共放送の責を担うNHKが、中国・韓国・北朝鮮に関してより客観的な視点から報道し、事実を尊重することが重要である。
 最後に、日本に滞在している外国人としてやるべきことは、一方的に日本社会に存在している欠点・弱点などを指摘することではない。積極的に日本の人々と交流し、一人一人と共感を得て、問題に対する関心を呼び起こすことが大切である。筆者は日本と中国の戦争映画を比較分析した上で、日本の若者向けの中国の反戦映画と、中国の若者向けの日本の反戦映画の鑑賞会を行なっている。まずお互いの視点から戦争映画を観て、異なる視点と立場を持っていることに気づいてもらう。その後、お互いの感想を交換し、理解を深めることによって、日本と中国の若者が相互の歴史認識を理解し合うことが可能だと思う。このように、多文化共生社会はそれぞれの違いを認め、共に生きることをめざすのである。

散歩日和:公営住宅化進む在日コリアンの「原風景」 京都・ウトロ地区 居住権を 人々のうねり - 毎日新聞
 戦後75年。日本の植民地政策や戦後の歩みを伝える場所を学ぼうと3月22日、在日コリアンが多く暮らす京都府宇治市伊勢田町のウトロ地区を訪ねた。
 近鉄京都線大久保駅で降り、陸上自衛隊大久保駐屯地横の歩道を歩いていくと、さびて崩れ落ちそうな建物群が見えてきた。番地がすべて同じ伊勢田町51のウトロ地区だ。かつての地名「宇戸口(うとぐち)」に由来するという約2万1000平方メートルの地区内には、「飯場」と呼ばれた労働者の宿舎跡が崩れながらも残り、住居だった周辺には生活用品や仕事道具などがあった。
 同地区の歴史は、太平洋戦争中の1940年代、軍事飛行場建設に従事するため、各地から集められた朝鮮人労働者らの宿舎に始まる。宿舎とはいえ、当初は板囲いにわらなどを載せただけの簡素な小屋だったという。45年8月、日本の敗戦により、飛行場建設は中止。日本人労働者700人も暮らしていたが朝鮮人労働者やその家族ら1300人が取り残された。

在日コリアンが多く住むウトロ町内会が市にマスク寄贈 「国籍超えて役立てて」京都・宇治|社会|地域のニュース|京都新聞
 新型コロナウイルス感染予防のマスク不足に悩む京都府宇治市に、在日コリアンが多く暮らすウトロ町内会(同市伊勢田町)が1500枚、ユニチカ宇治事業所(同市宇治)が2千枚のマスクを贈った。寄付者は「国籍を超えて困っている人に役立ててほしい」「宇治市で長年事業を行っているお礼に」と語る。
 第2次世界大戦中に京都飛行場建設に携わった朝鮮人の子孫らが暮らすウトロ町内会(約60世帯)は14日に寄付した。日韓の歴史を学ぶため、昨年にウトロ地区を訪れた韓国人夫妻が日本でのマスク不足を聞き、同地区に贈った5850枚の一部という。町内会長の田中秀夫さん(72)=韓国名・徐光洙(ソ・ガンス)さん=は「市の支援もあり、町民みんなが仲良く暮らせている。マスクを有意義に使ってもらえればうれしい」と語った。
 約1千人が働くユニチカ宇治事業所は13日に寄付した。同社の上海事務所が社内用に確保したマスクの一部という。尾崎達博事業所長は「市内で暮らす従業員も多く、コロナ禍の中で市のためにできることをしたかった」と話した。
 両者に対し、同市の浜岡洋史危機管理監は「貴重な寄付でありがたい。介護事業所や保育所などに配りたい」と感謝を述べた。

【参考:在日朝鮮・韓国人の「不法居住」(ウトロ以外)】
 「在日朝鮮人、不法居住」などでググって見つけた記事をいくつか紹介しておきます。なお、あくまでもカギ括弧付きの「不法居住」であり、俺に非難の意図はないことは念のためお断りしておきます。

「焼肉ドラゴン」映画に エネルギッシュな在日一家:朝日新聞デジタル
 高度経済成長の日が当たらない底流に埋もれた在日韓国人は、どう生きたのか。
 (ボーガス注:2018年6月)22日から公開される「焼肉ドラゴン」は、万博で沸く大阪を舞台に描かれる在日一家のエネルギッシュな悲喜劇に、そんなテーマが託されている。日韓で上演され、観客を熱狂させた戯曲の映画化で、作者である在日の劇作家、鄭義信*29(チョン・ウィシン)が、みずから初監督した。
 時は1969年。大阪・伊丹空港の近くで国有地を不法占拠している在日の集落に、「ドラゴン」と呼ばれる焼き肉屋があった。太平洋戦争で片腕を失った店主と妻は在日1世。3人の娘と長男がいて、貧しくても歯を食いしばって生きている。しかし、立ち退きを迫られ、一家は北朝鮮や韓国へと離れ離れに。それでも「明日はきっと、ええ日になる」と信じている。
 原作の同名戯曲は2008年、東京の新国立劇場とソウルの「芸術の殿堂」の合同公演のために、韓国側から直々に指名されて書かれた。
 鄭はその際、「棄民として忘れ去られてゆく在日の歴史や文化を記録しておこう」と思うとともに、「逆『三丁目の夕日』の世界を描こう」ともくろんだという。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)がかき立てた甘美なノスタルジーを「キムチ味」に変えようとしたのだ。
「僕が暮らしていた世界は、おしなべて貧しく、一生懸命に泣いたり、笑ったり、わめいたりする人たちがいたことを書き残しておきたかったんです」
 実は、兵庫県姫路市の自身の生家も国有地に建っていて、後に立ち退くことになった実体験も採り入れている。
「くず鉄屋をやっていた父は、『権利書はないけど、この土地は醬油(しょうゆ)屋の佐藤さんから買った』と言い張ってました。そのセリフは、劇中でそのまま使っています」
 映画で3姉妹を演じるのは、真木よう子*30井上真央*31桜庭ななみ*32。戯曲のファンだった大泉洋*33が、(ボーガス注:バラエティー番組で見せる)ちゃめっけを封印して、血の気の多い在日の青年を熱演している。

「共産党原因ではない」 佐久間氏主張、JFEが否定 | 選挙 | カナロコ by 神奈川新聞
 川崎市川崎区池上町のJFEスチール*34所有地に暮らす在日コリアンに対し、市議選に立候補した佐久間吾一氏(無所属)の陣営が「退去」や「完全解決」を選挙戦で訴えている問題で、同社は4日までに、「不法占拠の原因は日本共産党にある」とする佐久間氏の主張を全面的に否定した。佐久間氏が主張の根拠とする書籍の著者も「そのようなことを書いたことはない」とした。神奈川新聞の取材に答えた。
 同社の担当者は「共産党が原因という認識はない。この問題で共産党と話し合ったことはない」と語った。共産党県委員会も「あり得ない話だ」と佐久間氏の主張を非難した。

 この種のゲスウヨが共産党相手にデマ中傷するのは本当に勘弁して欲しいですね。

「在日コリアンを誹謗中傷」と批判した記者を提訴 川崎市議選の元候補者 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス
 神奈川新聞に演説が「デマ」だと書かれ、名誉を毀損(きそん)されたとして、川崎市議選の元候補者佐久間吾一氏(53)が石橋学記者(48)個人に140万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が24日、横浜地裁川崎支部であった。石橋記者側は演説が在日コリアンに対する差別の扇動で、記事は的確だとして請求棄却を求めた。
 佐久間氏は「在特会」の後継団体「日本第一党」最高顧問の支援を受けて4月の川崎市議選に出馬し、落選した。
 これに先立つ2月11日、市内の公的施設で講演会を開き、「いわゆるコリア系の方が日本鋼管の土地を占領」「革命の橋頭堡(ほ)になった」「闘いが今も続いている」などと演説した。
 演説について、石橋記者は署名記事で「悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗(ひぼう)中傷」と非難した。佐久間氏はこの記述に根拠がないとし、「選挙への悪影響を最小限に食い止めるため司法の場で潔白を証明する」として同月25日に提訴した。
 9月24日の閉廷後、佐久間氏は「コリアンを標的にはしていない」と主張した。
 石橋記者側は演説について「在日コリアンが社会秩序を破壊する目的で違法に土地を占拠しているとの印象を与える」として、批判記事は的確な論評だと述べた。石橋記者は同日、「原告は反差別の声を上げると面倒だという萎縮効果を狙っている。個人だけでもメディアだけでもなく、差別に反対する全ての人たちに対する攻撃だ」と語った。
 川崎市川崎区池上町にある旧日本鋼管(現JFEスチール)の社有地には工場で働くため朝鮮半島から渡ってきた人々や子孫が多く住む。JFEは取材に対し、「不法占拠とは考えていない。話し合いで解決したい」と述べた。
◆標的にされた街、川崎区池上町
 電線が低く垂れ、迷路のように路地が入り組む。家が壁を寄せ合い、崩れかけた空き家もある。川崎市の臨海部に位置する川崎区池上町は独特の表情を見せる。
 元は荒れ地だった。隣に工場を構えていた旧日本鋼管(現JFEスチール)が戦前、朝鮮半島出身の労働者らを住まわせたという話が伝わる。戦後にかけ、在日コリアンのコミュニティーができた。今は賃貸契約がない200人ほどが住む。
 この町を標的にしてきた佐久間吾一氏らが直接乗り込んだのは今年3月末。4月投開票の市議選に向け、第一声の場所に選んだ。「不法占拠」「完全解決」とのぼりを掲げた。それを見て泣き崩れる女性住民もいた。
 第一声の現場近くに住む女性(73)も、異様な光景に衝撃を受けた。「突然あの人たちが来て、出ていけと言われた。どきどきしすぎて、病院に行こうかと思った」
 亡くなった夫は在日2世で、自身は日本人。4月からは町内会長としてJFEや市、消防を交え、入り組んだ土地問題を話し合っている。「会社にも出て行けと言われたことはないのに」と憤る。
 JFEは本紙の取材にも「賃貸借関係はないが、不法占拠とも認識していない。話し合いで解決したい」と説明。佐久間氏や支援者の言動について「当社とは関係ない」と明言した。

「スラップ訴訟」めぐり石橋記者を支援、神奈川新聞社にも要請 | 新聞労連(日本新聞労働組合連合)
  ヘイトスピーチを批判した記事をめぐり、川崎市議選に立候補した佐久間吾一氏から「名誉毀損」などと訴えられた神奈川新聞の石橋学記者に対し、新聞労連は1月22・23日の臨時大会で支援する方針を確認した。
 石橋記者は2019年2月、川崎市議選に立候補予定だった佐久間氏が「旧日本鋼管の土地をコリア系が占領している」「共産革命の橋頭堡が築かれ、今も闘いが続いている」と発言した川崎市内での講演内容を「悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗中傷」と報じた。この報道に対して、佐久間氏は同年、「名誉棄損」や「侮辱」にあたると主張して横浜地裁川崎支部に石橋記者個人を提訴した。
 石橋記者は23日の臨時大会で、ヘイトスピーチや差別と闘う弁護士や市民、全国の記者らの支援が集まっていることに感謝。「川崎市では全国で初めてヘイトスピーチ刑事罰を科す条例ができて、ヘイトデモをやりにくくなっている。そうした中でレイシストは自由に発言できる法廷の場を選んできている。今のところ、裁判を起こすのを止める術がないが、『裁判を起こして失敗した』と思わせることが大事だ。ヘイトと闘う運動の連帯の輪がより広がることを示さないといけない」と訴えた。
 今回の訴訟は、記者本人を狙い撃ちにしたたもので、神奈川新聞社は入っていないが、新聞労連は1月28日、同社に石橋記者を支援するよう要請した。要請内容は以下の通り。
神奈川新聞社への要請内容(要旨)
 緻密な取材と倫理観に基づき、差別発言の本質を毅然と指摘した石橋記者の記事は、事実に立脚する優れた論評でした。その記者を狙い撃ちした本件訴訟は、「言論の自由」「真実・公正な報道」に対する攻撃であり、不当なスラップ訴訟にほかなりません。
(中略)
 今回の訴訟の被告に神奈川新聞社は入っていませんが、記事掲載の責任が会社にあるのは言わずもがなです。また、記者個人を狙い撃ちにした不当な訴訟提起に対して会社が毅然とした対応を取らねば、全国の現場で差別をはじめとした社会の不条理を掘り起こし、伝えようと奮闘している記者たちの委縮にもつながりかねません。
 神奈川新聞社には、原告への抗議表明や裁判の不当性を検証する紙面展開、石橋記者への物心両面の支援を強く求めます。
 新聞労連も、全国の加盟組合員2万人によるカンパや傍聴支援などに取り組みます。石橋記者に対する不当なスラップ訴訟をはね返すことは、労使一体となって取り組むべき課題と考えます。神奈川新聞社の積極的な対応を強く望みます。

 ちなみにリベラル「神奈川新聞」が「在日朝鮮人差別問題」として取り上げたこの問題が「嫌韓国右翼・産経」だと「予想の範囲内」ですが以下のように「在日コリアンへの悪意、敵意むき出し」になります。

川崎「不法占拠」、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住 - 産経ニュース
 川崎市川崎区池上町のJFEスチール(本社・東京)敷地内に、土地の所有権を持たない多くの人が住み始め、戦後70年以上を経たいまも住み続けていることが29日、分かった。市などの関係者が不法占拠の疑いを指摘した上で、防災や防犯上の観点から解決を促している。同社は問題解決に向けた取り組みを強化しているが、時間の経過とともに居住者や権利関係などが複雑化している。
 市などの関係者が「不法占拠地帯」と指摘するのは、同社東日本製鉄所・京浜地区「池上エリア」北側とその周辺区域。大部分が同社の敷地で、200軒以上の家屋や事業所が密集している。

「多国籍共生」比重増す川崎市 池上町問題、目をつむる姿勢に疑義(1/3ページ) - 産経ニュース
「問題の地域がある」。
 川崎市幹部の一人が、市政記者クラブの一室を訪れ、その場にいた複数の記者を前にそんな話を切り出したのは昨年の晩春、今から1年半以上前のことだ。問題の地域とは、市臨海部にある池上町(川崎区)の北側一帯のことを指す。民有地で貸借契約もないまま多くの人が居住している。違法建築が横行する現地の状況に危機感を覚えた幹部が「惨状」を訴えたのだ。
 記者にそれを伝えることが、何を意味するのか。
 「記事*35に取り上げてほしい」「問題を俎上(そじょう)に載せ、解決への取り組みを前進させたい」。
 口には出さなかったが、そうしたメッセージを含んでいるのは明らかだった。
 ただ長い間、記事として取り上げることができなかった。土地所有者のJFEスチール(本社・東京)が消極的*36▽問題を取り上げる切り口が見つからない▽住民の生活権に関わる部分がある-などがその理由だ。煮え切らない思いで日々を過ごし、今冬になってようやく「防災・防犯」を切り口に、行政側の視点で(ボーガス注:川崎「不法占拠」、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住 - 産経ニュースとして)記事化した。
 池上町は大部分がJFEスチールの敷地だ。その一角に200軒以上の家屋や店舗、事業所が密集している。別の市幹部が「国内最大級の不法占拠地帯だ」と指摘するように、居住者のほとんどが同社との間で貸借契約などを結んでいない。同社は土地の固定資産税を支払い、居住者を「不法占拠」と認識している*37
 ただ、同社側は「提訴すれば勝てるだろうが、長く住んでいる人たちに立ち退きなど求められない」という“配慮”を口にする。その上で「空き地になった部分は少しずつ取り戻している」と説明する。ただし、空き地になるのはレアケースのため、解決に「何十年かかるか分からないが」と付け加えている。
 現地は防火施設の整備もままならず、未区画の細道には消防車も入り込めない。近年は老朽化して放棄された家屋が目立つ。
 市側は「一度(ひとたび)火が出たら、大惨事になる」と認識している一方で、「民有地なので不法占拠問題には口出しできない」というジレンマを抱えている。こうした状況に業を煮やした市が、防災・防犯の観点で池上町への積極関与に乗り出し、関係各者との連絡会を結成したのは平成26年のことだ。
 27年の日進町(川崎区)の簡易宿泊所火災を受けて防火体制強化を進める市にとって、池上町は早急に解決したい目の上のこぶ*38。28年には、警察や消防、住民、地権者の各代表による第1回協議会を開催している。冒頭の市幹部の“リーク”は、世論喚起と同時に、悠長な姿勢を示し続けるJFEスチールにハッパを掛けたいという思いからにほかならない。

 これが事実*39なら川崎市幹部が「札付きの在日差別者・産経に在日差別をたきつけたことになる」、つまり「人権上、極めて問題のある行為」ですが、どうも「骨の髄まで嫌韓国」の産経はそうは思ってないようです。
 こういうげすな差別者には人としてなりたくないモンです。
 防災を口実にしている産経ですが実際にはただの排外主義でしょう。そもそも問題は「居住住民の『住む権利』を守りながら、どうやって防災対策するか」であって、「防災対策上問題だから出て行け(そもそも不法占拠では無いのか?)」などといたずらに敵視することでは無いでしょうに。何というか、「神奈川新聞のようなリベラル派」と「産経のような嫌韓国極右」の違いにはいつもながらため息が出ます。
 まあ、それはともかく。
 「話が脱線しますが」、こういう「身近な」「日本国内」の「外国人の人権問題」ならまだしも「日本人が何かできるとは思えない外国の人権問題(まあ何でもいいんですけど、例えば香港だのチベットだのウイグルだの。もちろん中国に話は限定されませんが)」には俺はほとんど関心は無いですね。いや「身近な」「日本国内」の「外国人の人権問題」だって正直、「人権問題に鈍感で外国人の友人もいない日本国民」としてほとんど知識も関心も無いので「日本国内の外国人の方々」に大変申し訳ないと思っていますが。ただ「香港だのチベットだのウイグルだの」については「中国の国内問題で日本人は関係ねえし、そもそも日本人にできることねえだろ。アパルトヘイト時代南アならまだしも、中国に経済制裁なんか国益上できる話じゃねえし。中国に商品売って金儲けてるのが日本企業やろ」と「国内の外国人の人権問題」と比べても「全然関心も興味もない」のが俺ですね。
 「BLM云々(米国)」「香港デモ云々(中国)」とかいって外国の人権問題にああだ、こうだ言ってるのを見ると「そんなことより国内の人権問題に目を向けろよ」「お前、日本がそんなに立派な国だと思ってるのか?。外国叩きして嬉しいか?」と言いたくなる俺です。特に産経や国基研などウヨ連中の「香港がー、チベットがー、ウイグルがー」て「反共極右」の「ただの中国叩き」だし(まあ、こういうことを書くと澤藤統一郎の憲法日記 » これが、法輪功を邪教と決め付ける根拠?の澤藤統一郎の他、Mukke、阿部治平などの「ボーガスは中国シンパ」と言う誤解、曲解を助長し「そんなに中国相手の金儲けが大事か(注:なお、俺的には『日本の国益上、中国ビジネスは大事だと思いますがそれが何か?』『あなたは大事じゃないんですか?』ですね*40)」等と悪口されるのでしょうが、俺はそう思っています。日本共産党支持者の俺ですが、その意味では志位委員長、小池書記局長ら執行部とは違い、彼らほどには中国批判する気は無いです。
 むしろ

『日中友好新聞』がんばれ!!|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ
 『日中友好新聞』はいわゆる「日本共産党系」の日本中国友好協会(日中友協)が発行している新聞ですが、8月15日号は第3回常任理事会での討議を紹介しており、特に「香港問題で活発な議論」では、党中央の公式見解に対するさまざまな意見が紹介されており、私は大いに力づけられました。
 私は香港問題に限らず、日本共産党の中国問題に関する分析・判断は「結論先にありき」で、極めて問題があると認識・判断しています(1月の党綱領改正にかかわる志位委員長発言については、新著249-264頁で詳しく批判的に検討*41)。他方、日中友協の会員の方たちとはさまざまな集会でお会いすることがあり(コロナ下ではそういう機会もなくなりましたが)、中国に対してバランスがとれた見方を持っている人が多いことを知っています。私としては、日中友協及びその会員が党中央の中国問題に関する見解を正し、日本国内の偏見に満ちた対中認識を改めるべく、大いに健闘して欲しいと日頃から願っているのです。そういう私からすると、『日中友好新聞』の記事はとかく「奥歯にものが挟まった」感じで歯がゆいものが多いというのが偽りのない印象でした。
 しかし、冒頭に紹介した8月15日号では、香港問題に関して、名指しは避けているものの、党中央の香港問題に関する判断を問題視する意見が常任理事会の場で活発に出されたことを知ることができます。具体的には以下のとおりです。

香港問題での活発な討論
 議案提案を受けての討議では、香港の情勢をめぐって意見が集中し、次のような率直な意見が表明されました。
 「香港でも国家安全法に強く反対する人びとがいる一方で、この法律を支持している人もいる。協会内でもさまざまな意見がある。情勢を客観的にとらえることが必要だ」
 「中国政府、香港政府、民主派それぞれに問題があり、それぞれに批判が必要だ」
 「中国が好きで入会してきた人の中には、中国に『抗議する』と聞いてびっくりする人もいる。幅広い人が集う協会としての判断が大事で、少数意見を排除すべきではない」

 私は日中友協の常任理事会という重みのある場所でこれらの意見が活発に出されたこと、そして、『日中友好新聞』がその事実を活字にしたことを非常に重視します。素晴らしいことだと思います。私はこの機会に、同紙が「奥歯にものが挟まった」物言いに終始するのではなく、真の日中友好を考える立場から、「正しいことは正しい、間違っていることは間違っている」と党中央にも直言する、ジャーナリズムとしてのあるべき姿を確立することを心から期待します。そして、日中友協が毅然とした立場を確立し、ひん曲がっている世論の対中観を正す先頭に立つとともに、党中央の主観と偏見に満ちた対中認識・分析をも正す役割(日中友協以外にこの役割を担いうる組織はない!)を担うことを心から期待していることも、併せて表明しておきたいと思います。

という浅井基文氏に共感しています。
 さて、この産経記事については「朝日新聞アエラ」が批判記事を書いてるのでそれも紹介しておきます。

川崎・池上町 路地裏に残る「戦後」の声を聴く (1/5) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)アエラ2019年3月8日号)
 日本の高度経済成長を支えた労働者が暮らす川崎・池上町でいま、住民たちが立ち退きを迫られている。あいまいにされてきた「戦後」の問題が、現代に表出した。地域の歴史をひもとくと、路地裏に残るひずみが見えてきた。ライターの磯部涼*42がレポートする。
・池上コインランドリーを巡って、ある「事件」が起きる。オーナーが新たに土地を利用しようと老朽化した店の解体工事を始めたところ、土地の所有者である鉄鋼メーカーのJFEスチールと、川崎市から、土地を明け渡すよう求められたのだ。12月下旬には敷地が柵で囲まれ、「JFEスチール管理地」という標識が架けられる。それは、小さな町を揺るがす騒動の始まりだった。今年2月には、JFEから住民に宛てて、家屋を収去して土地を明け渡すよう求める通知書が次々に届いた*43
 池上コインランドリーの「事件」の最中、産経新聞がウェブに、池上町についての記事を立て続けに掲載。1本目の見出しは、「川崎『不法占拠』、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住」(18年11月30日付)だった。
 池上町の土地の6割ほどは、日本鋼管が所有し、JFEに受け継がれている。一方、そこに家を建てているひとたちはJFEと契約を結んで地代を払っているわけではない。それが“不法占拠”と捉えられた。
JFEが契約交渉を求めたり、立ち退きを要求したりすることは長くなかっただけに、コインランドリー跡地の差し押さえや、土地の明け渡しを求める通知が届いたことは、住民にとって青天の霹靂だったという。
 2月下旬、池上町の集会所で話し合いをした住民たちは、みな不安を隠せない様子だった。在日コリアンの3世で、母親と同居する女性(62)は言う。
「うちも差し押さえられるんじゃないかって心配で。ただでさえ、いま日韓関係が悪いでしょう。疑心暗鬼になってしまって」
 また、在日コリアンの2世にあたる男性(79)はJFEの態度に憤る。
「住民税も、家屋の固定資産税も払っているんですよ。だから、土地の問題も解決したいと思って、10年ほど前、JFEに『買いたい』と言ったら『個人では受け付けられない』と返されたんです。ところが、コインランドリーの件があったので、今年に入ってまた連絡したら、『今度、状況を説明しに行きます』と言ったきり、折り返してこない。一体、どういうことなんだ」
 この日、集まったのは10人ほどだが、誰もが土地の問題を解決したいと考えていた。
 池上町で長年、ソーシャルワーカーとして生活支援を行ってきた三浦知人さん(64)は、「住民に対して“不法占拠”というロジックを使うことは、歴史認識が著しく欠如していると言わざるを得ない」と語る。
 現在、社会福祉法人「青丘社」で理事を務める三浦さんが、初めて池上町を訪れたのは74年。早朝、ごま油とニンニクの匂いが立ちこめる中、男たちが道端に座って、労働現場へと向かう車を待つ。やがて、路地は女たちのおしゃべりや、子どもたちが遊ぶ声でにぎやかになっていく。仕事からあぶれた男たちは、昼間から、焼き肉屋で女将にどやされつつ酒盛りをしている。
 「在日コリアンが多い川崎でも、当時、そこまでの集住地区は幸区の戸手と池上町ぐらいしかなかったですね」
 日本の高度経済成長を支えた労働者の街である池上町には、仕事を求めて各地からやってきた日本人も受け入れた共生の歴史がある。こうした点も、忘れてはならないことだ。
 50年代から60年代にかけては土地の所有者である日本鋼管が住民を強制的に立ち退かせようとする動きもあったが、70年代にはほとんどなくなっていたという。やがて川崎市は、住民から住民税や家屋の固定資産税を徴収するようになったものの、土地の問題がうやむやなままなので、下水工事などは住民が金を出し合って進めた。区画整理もされず、バラック群が基になった町並みは過密状態に。車が通れないほど狭い道もあり、ひとたび火事が起これば一気に燃え広がった。
 91年には、川崎区内の池上町や桜本、大島、浜町といった生活環境などの課題を抱えるおおひん地区で「街づくり協議会」が発足。池上町でも住民側から、土地の問題や生活環境の改善などの要求が挙がり、日本鋼管も行政もテーブルについたが、結局、結論は出なかった。
◆土地の問題を解決して、次の代に街を引き継ぎたい
 並行して、池上町のあり方にも変化が起こる。在日コリアン1世の高齢化が進み、代わって町づくりの中心となった2世は、在日コリアンというアイデンティティーや池上町というコミュニティーにそこまで思い入れを持たない者も多かった。中には自分は池上町を出て、住居の跡地にアパートを建設、そこに日本人やニューカマーの外国人が入居するケースもあった。旧住民たちは「今、町会費を払っているひとは住民の半分もいない」と嘆く。
 高齢化、コミュニティーの弱体化……特殊だとされる池上町も、多くの街と同じ問題にぶつかっている。
 戦前から戦後にかけての混乱の歴史を経て、土地の問題を抱えてきたのは池上町だけではない。京都府宇治市のウトロ地区と呼ばれる在日コリアン集住地区は、立ち退き反対運動の末、住民側が土地の一部を買い取り、17年末に市が新たに集合住宅を建設。そこに入居する形で和解に至った。日本も批准している国際人権規約が強制立ち退きを人権侵害とみなしていることを根拠に、国際社会にも支援を訴えたことが解決につながったという。
集会所で出会った在日コリアン2世の男性は「自分たちの代でこの問題を解決して、次の代に街を引き継ぎたい」と言う。また、3世の女性は「色々と問題があっても住み続けているのは、この街が大好きだから。ネットでは『池上町は怖い街だ』なんて書かれているけど、鍵をかけなくてもいいような安全な街なんですよ」と微笑んだ。
 戦前から戦後にかけて、荒れ地に住まざるを得なかった在日コリアンの歴史を踏まえずに、「不法占拠」だとみなし、土地を取り上げようとしているのだとしたら問題だ。
 JFEスチールに、池上町への対応について尋ねたところ、「土地の売買や賃貸に関して住民と個別の相談はしない。今後は行政と連携して、コインランドリーの跡地のような管理地を増やしていく考えだ」と地区の担当者から返ってきた。ただし、「土地の明け渡しを求める通知書は空き家だと認識したところに送っている。まだ住んでいたのなら手違い。それについては個別に話し合いたい」と話す。
 こうした現状に対して、三浦さんは言う。
「住民は住民税を払って池上町に住んでいるのに、土地所有の問題によって公共の福祉の枠外に置かれてしまっているのだとしたら、そこには行政の責任も当然ある。歴史的な経緯を踏まえ、改めて行政とJFEが住民と向き合い、土地と生活環境の問題を改善していかなければなりません」

【参考:ホームレス問題】

大阪府、野宿者立ち退き求め提訴 西成・あいりん地区の22人に|全国のニュース|Web東奥
 大阪市西成区のあいりん地区にあり、昨年4月に閉鎖された複合施設「あいりん総合センター」の敷地などで野宿するホームレスら22人に対し、大阪府が立ち退きを求めて大阪地裁に提訴したことが22日、分かった。敷地は公有地に当たると主張している。支援団体の担当者は「他に安全な居場所がなく、裁判の仕組みが分かっていない人もいる。弁護士と相談し、対応を考える」と話している。
 訴状によると、ホームレスらはブルーシートや布団を公有地に持ち込み、不法占有しているなどとしている。提訴は4月22日付。
 府は「係争中の案件で、詳細はコメントできない」としている。

 「悪い意味で」実に維新らしいですが「違法占拠だから立ち退け」で済む話でも無いでしょうよ。

*1:著書『中国古代の社会と黄河』(2009年、早稲田大学出版部)

*2:2018年、吉田書店

*3:愛知学院大学教授。著書『昭和天皇と近現代日本』(2003年、吉川弘文館)、『内奏:天皇と政治の近現代』(2010年、中公新書

*4:宮内庁書陵部主任研究官。著書『三条実美』(2019年、中公新書

*5:愛知淑徳大学教授

*6:清水家、田安家、一橋家のこと

*7:第2次山縣、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相を歴任

*8:第2次大隈、寺内、原、高橋内閣海軍大臣、首相など歴任

*9:戦前、加藤高明、第1次若槻、濱口、第2次若槻内閣外相を歴任。戦後、首相、吉田内閣副総理、衆院議長を歴任

*10:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自殺

*11:法制局長官、枢密院副議長、議長など歴任。枢密院議長時代には、副議長の平沼騏一郎とともに金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、平沼とともに条約反対を唱えて浜口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたために挫折。その後も満州事変や五・一五事件などの軍部の暴走に対しても軍部に同情的な姿勢を見せた。だが、昭和天皇の信任が揺らいだ事で自信を失い、昭和9年(1934年)に眼病を理由に、平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、倉富や平沼の親軍部姿勢に反感を抱く元老・西園寺は、後任議長に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた(倉富勇三郎 - Wikipedia参照)。

*12:大久保利通の次男。第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内大臣内大臣など歴任。

*13:著書『遠野物語』(岩波文庫角川ソフィア文庫河出文庫)など

*14:跡見学園女子大学名誉教授。著書『貴族院書記官長 柳田国男』(1985年、筑摩書房)など(岡谷公二 - Wikipedia参照)

*15:京都大学名誉教授。京都橘大学教授。著書『近代日本の軍部と政治』(1993年、思文閣出版)、『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(2003年、京都大学学術出版会)、『日中戦争から世界戦争へ』(2007年、思文閣出版)、『西園寺公望』(2018年、山川出版社日本史リブレット人)

*16:参議、大蔵卿、内務卿を歴任

*17:2018年、ミネルヴァ書房

*18:著書『戦争とトラウマ』(2017年、吉川弘文館

*19:静岡大学教授。著書『地域史のなかの部落問題:近代三重の場合』(2003年、解放出版社)、『描かれた被差別部落:映画の中の自画像と他者像』(2011年、岩波書店)、『近代部落史』(2011年、平凡社新書)など

*20:2020年、有志舎

*21:明治大学教授。著書『日中一〇〇年史』(2006年、光文社新書)、『台湾ナショナリズム』(2010年、講談社選書メチエ)、『ポスト〈改革開放〉の中国』(2010年、作品社)、『思想課題としての現代中国』(2013年、平凡社)、『中国ナショナリズム』(2015年、法律文化社)など

*22:1910~1977年。著書『魯迅入門』(講談社文芸文庫)、『日本とアジア』(ちくま学芸文庫)など

*23:2019年、大月書店

*24:明治学院大学教授。著書『朝鮮独立への隘路:在日朝鮮人の解放五年史』(2013年、法政大学出版局)、『忘却のための「和解」:『帝国の慰安婦』と日本の責任』(2016年、世織書房

*25:サントリーの前身

*26:1989年、映画会社シネカノンを設立。1993年、映画『月はどっちに出ている』(崔洋一監督)で初の映画プロデュースを手掛け、キネマ旬報監督賞などを受賞。2000年『シュリ』、2001年『JSA』『殺人の追憶』を大ヒットさせ、韓流ブームの火付け役と呼ばれる。2005年、『パッチギ!』(井筒和幸監督)でキネマ旬報ベストテン1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞、ブルーリボン賞作品賞など多数受賞。2006年には、『フラガール』(李相日監督)で日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞。しかしシネカノンは2010年1月、負債総額・約47億円を抱えて破綻し、東京地裁民事再生手続を申請。2011年4月、映画製作会社SUMOMOを設立。2012年11月、『EDEN』(船戸与一原作、山本太郎主演)、2014年、『イン・ザ・ヒーロー』(武正晴監督、唐沢寿明主演)、2017年、『リングサイド・ストーリー』(武正晴監督)、2019年、『あの日のオルガン』(平松恵美子監督)の製作に関与。著書『パッチギ!的:世界は映画で変えられる』(2007年、岩波書店)など(李鳳宇 - Wikipedia参照)

*27:著書『在日朝鮮人社会の歴史学的研究』(2009年、緑蔭書房)、『朝鮮人強制連行』(2012年、岩波新書

*28:ググったところ2020年7月に文藝春秋社から『パチンコ』という題名で邦訳が刊行されたようです。

*29:映画『月はどっちに出ている』(1993年)、『血と骨』(2004年)でキネマ旬報脚本賞を、映画『愛を乞うひと』(1998年)で日本アカデミー賞最優秀脚本賞キネマ旬報脚本賞を受賞(鄭義信 - Wikipedia参照)

*30:1982年生まれ。中学卒業後の1998年、応募者約1000人の中からわずか5人の合格者の内に選ばれ、仲代達矢主宰の俳優養成所「無名塾」に入塾。翌1999年、入塾二年目にして無名塾公演『どん底』で重要な役であるナターシャ役に大抜擢された。仲代は『どん底』パンフレットの中で、その才能を絶賛していた。しかし、少しでも稽古を多くしたいと思ったことから、合宿で日課となっている早朝の持久走を早い時間に済ませて先に発声練習をして集合場所で待っていたため、それを見た仲代がサボったと思い大激怒。納得の行かなかった真木は逆に仲代に怒り返したことから、結局そのまま退塾・帰郷。その合宿以来、仲代とは挨拶もしていなかったが、2013年7月、仲代が報知新聞社のインタビューで「真木さんにいつか会うときがあったら『おめでとう』と伝えてくれないか」と取材者にメッセージを託した(2006年、映画『ゆれる』で山路ふみ子映画賞新人女優賞を受賞するなど既に真木は俳優として高い評価を受けていた)。それに対し、真木は、2013年12月、第38回報知映画賞表彰式(映画『さよなら渓谷』に対し主演女優賞)で「無名塾でお芝居の面白さとか、役者の面白さを全部教えてもらった。いつかごあいさつができる日が来たら……『ありがとうございました』ときちんと言いにいきたい」とコメントした。2013年、映画『さよなら渓谷』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、報知映画賞主演女優賞、映画『そして父になる』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞(真木よう子 - Wikipedia参照)

*31:1987年生まれ。2011年、映画『八日目の蝉』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞(井上真央 - Wikipedia参照)

*32:1992年生まれ。2010年に映画『書道ガールズ!! わたしたちの甲子園』で報知映画賞新人賞を、映画『最後の忠臣蔵』で日本アカデミー賞新人賞を受賞(桜庭ななみ - Wikipedia参照)

*33:1973年生まれ。2016年、映画『駆込み女と駆出し男』でブルーリボン賞主演男優賞を受賞(参照)

*34:2003年に、川崎製鉄日本鋼管が統合して発足

*35:その「記事」とやらが川崎「不法占拠」、戦後70年いまも JFEスチール対策強化 在日朝鮮人ら居住 - 産経ニュースになるわけです。

*36:これについてはたとえば「在日コリアンを誹謗中傷」と批判した記者を提訴 川崎市議選の元候補者 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラスでのJFEスチールのコメント参照

*37:「在日コリアンを誹謗中傷」と批判した記者を提訴 川崎市議選の元候補者 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラスを信じれば「不法占拠」と認識しているとは言えないでしょう。少なくとも産経のような敵対的態度で無いこと(住民との円満解決を希望してること)は確かです。

*38:仮にも人間相手に「目の上のこぶ」呼ばわりとかどういう神経をしてるんでしょうか?。いつもながら産経には呆れます。

*39:残念ながら事実なのでしょうが。

*40:まあこういう事書くと、『澤藤らアンチ中国分子』には『あの野郎、どこまで中国に甘いのか!』などと嫌われるであろうことは自覚しています。

*41:浅井氏の日本共産党批判として日本共産党委員長発言(朝日新聞)|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページを紹介しておきます。

*42:著書『音楽が終わって、人生が始まる』(2011年、アスペクト)、『踊ってはいけない国、日本:風営法問題と過剰規制される社会』(編著、2012年、河出書房新社)、『ルポ・川崎』(2017年、サイゾー

*43:アエラ記事発表以後に書かれた「在日コリアンを誹謗中傷」と批判した記者を提訴 川崎市議選の元候補者 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラスでの「JFEコメント(円満に解決したい)」と朝日記事でのJFEの態度の食い違いが気になるところです。「在特会の同類扱い」として批判されるのを恐れて沖縄タイムス相手に嘘八百並べ立てたと言うことなのか。はたまた朝日記事などの批判によってJFEが「対話路線」に切り替えた(つまり「在日コリアンを誹謗中傷」と批判した記者を提訴 川崎市議選の元候補者 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラスでの「JFEコメント」は一応正しい)と言うことなのか。