新刊紹介:「歴史評論」9月号

詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
◆文化の窓(リレー連載:川から見る風景⑤)「中国の『河』はどこへ行った?」(濱川栄)
(内容紹介)
 筆者は日本では「利根川」「長良川」など「川」と言う表記を用いるのに対し、中国では「黄河」「揚子江」など、「河」「江」がもっぱら使われるように思うが、こうした違いが何故生まれたのか、今後研究していきたいとしている。


◆書評:原口大輔著『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』(評者・後藤致人)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』 原口大輔著 : 書評 : 本よみうり堂 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン
 議院内閣制を定めなかった帝国憲法のもとでは、へたをすると内閣・衆議院貴族院三者がにらみあい、国家権力が空中分解する危機すら招きかねなかった。
 そこで調整役として、貴族院議長が大きな役割を果たしていたことを、この本は明らかにする。主役は明治の末から一九三〇年代の政党内閣期まで、長く議長を務めた徳川家達(いえさと)。「公平」と誰もが称した人柄によって、政府と貴・衆両院とのあいだの調整に努力し、政党内閣の時代には貴族院が「第二院」の立場にとどまるように工夫した。

徳川家達の生涯と思想たどる 原口大輔さん、政治活動中心に概観|好書好日
 江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)が謹慎した後、御三卿の田安家から出て16代徳川宗家を継ぎ、帝国議会貴族院議長を30年にわたり務めた徳川家達(いえさと)(1863~1940)。その生涯を政治活動を中心に概観した『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』(吉田書店)が刊行された。
 著者で日本学術振興会特別研究員(PD)の原口大輔さん(31)は小学生の時、週刊「ビジュアル日本の歴史」で家達の存在を知り、卒業論文にも家達を選んだ。「あまり知られていないのですが、家達は1914年に天皇からの組閣の大命を固辞しているんです。徳川将軍家の子孫が総理大臣になる可能性があったと知って衝撃でした」
 本では、帝国議会上院である貴族院の議長として家達が行った事績や海軍軍縮会議であるワシントン会議(1921~22年)の全権委員就任と関連の「失言」事件、貴族院書記官長を務めていた頃の日本・民俗学の父・柳田国男との確執などを軸に、家達の生涯とその政治思想を紹介していく。
 貴族院議長としての家達は、留学時に見た英国議会を参考に、政治的主張を前面に押し出さず、衆院貴族院の調整を図るという独自のスタンスを貫いた。
「生前の家達は多くの人から『公平』『無色透明』と評され、議長として信頼されていました。徳川宗家が維新後をどう生き抜いたかという視点も含め、もっと光があたるべき人物だと思っています」

【参考】

徳川家達 - Wikipedia1863年8月24日(文久3年7月11日)~1940年(昭和15年)6月5日)
・慶応4年(1868年)4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、5月24日、駿府藩主として70万石を与えられる。
・1869年(明治2年)6月、静岡藩知事に就任し、徳川家ゆかりの地である駿河府中(現:静岡市葵区)へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。
明治4年1871年)7月、廃藩置県によって静岡藩知事を免職となり、東京へ移住、千駄ヶ谷に住むことになった。
明治17年1884年)の華族令公布によって公爵を授けられ、明治23年(1890年)の帝国議会開設と同時に貴族院議員になった。明治36年1903年)12月4日から昭和8年(1933年)6月9日まで、延べ31年の長きにわたって貴族院議長を務めた。
大正3年(1914年)3月24日、シーメンス事件によって第1次山本*1内閣が総辞職。同月27日には後継首班の正式候補に挙げられたが、「未だ徳川が政権に表立って関わるのは遠慮すべき」として2日後に辞退。
・1922年、海軍大臣加藤友三郎*2や駐米大使の幣原喜重郎*3などとともにワシントン軍縮会議全権を務め、イギリス・アメリカ・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結。国内では海軍軍令部や右翼から「軟弱外交」との批判を受けた。
昭和4年(1929年)11月、第6代日本赤十字社社長に就任、終生、務める。昭和8年(1933年)6月9日、貴族院議長を辞したが、その後も貴族院議員は務め続けた。
◆エピソード
・同性愛の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦することが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年(1917年)頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程)を支払ったという。倉富勇三郎*4牧野伸顕*5から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、伯爵・松浦厚はこれを嫌って家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという。
貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった民俗学者柳田國男*6と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院書記官長を辞職した。両者の不仲の理由について、(ボーガス注:通説は政治的な対立もあったとするが、)潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと岡谷公二*7は推測している。一方、永井和*8は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している。

*1:第2次山縣、第4次伊藤、第1次桂内閣海軍大臣、首相を歴任

*2:第2次大隈、寺内、原、高橋内閣海軍大臣、首相など歴任

*3:戦前、加藤高明、第1次若槻、濱口、第2次若槻内閣外相を歴任。戦後、首相、吉田内閣副総理、衆院議長を歴任

*4:法制局長官、枢密院副議長、議長など歴任。枢密院議長時代には、副議長の平沼騏一郎とともに金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、平沼とともに条約反対を唱えて浜口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたために挫折。その後も満州事変や五・一五事件などの軍部の暴走に対しても軍部に同情的な姿勢を見せた。だが、昭和天皇の信任が揺らいだ事で自信を失い、昭和9年(1934年)に眼病を理由に、平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、倉富や平沼の親軍部姿勢に反感を抱く元老・西園寺は、後任議長に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた(倉富勇三郎 - Wikipedia参照)。

*5:大久保利通の次男。第1次西園寺内閣文相、第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相、宮内大臣内大臣など歴任。

*6:著書『遠野物語』(岩波文庫角川ソフィア文庫河出文庫)など

*7:跡見学園女子大学名誉教授。著書『貴族院書記官長 柳田国男』(1985年、筑摩書房)など(岡谷公二 - Wikipedia参照)

*8:京都大学名誉教授。京都橘大学教授。著書『近代日本の軍部と政治』(1993年、思文閣出版)、『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(2003年、京都大学学術出版会)、『日中戦争から世界戦争へ』(2007年、思文閣出版)、『西園寺公望』(2018年、山川出版社日本史リブレット)