世間に知られ始めた「田中絹代が映画監督だった」と言う事実(2020年12月11日版:2021年12月20日に追記あり)

【最初に追記:2021/12/20追記】
 コメ欄でのご指摘に「応答が長くなる」ので別途世間に知られ始めた「田中絹代が映画監督だった」と言う事実(2021年12/20版) - bogus-simotukareのブログで応答しておきます。
 なお、小生は「わざわざ見に行くほどの興味は無い」ので見に行かない予定ですが、情報提供は本当にありがとうございます。
【追記終わり】

下関出身・田中絹代生誕記念 朗読とトークショー 市民ら60人参加、きょう上映会も /山口 | 毎日新聞2019.11.3
 下関市出身の女優、田中絹代(1909~77年)の生誕記念イベントが2日、同市田中町の田中絹代ぶんか館であった。同郷の若手女優が絹代の自叙伝を朗読し、市民ら60人以上が聴き入った。
 絹代が日本経済新聞に連載した「私の履歴書」を同市出身の女優、江原千花さんが朗読した。「肌が絹もちのように」と願いを込めて名付けられたことや、「トーキー女優第一号」「初の女性映画監督*1」など(この記事は有料記事です(残り278文字(全文462文字)、スタンダードプランが今なら2カ月目も100円 冬得キャンペーン実施中!)。(いますぐ登録して続きを読むまたはログインして続きを読む)

https://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20200124_01.html2020.1.24(宍戸錠の訃報コラム)
 宍戸さんの原点はデビュー前の面接にさかのぼる。大女優でもある田中絹代監督に言われた一言。
 「前歯が大き過ぎね。前4本差し歯にしなさい」。
 俳優になるためなら何をしてもいいと思った。後に役者として何かが足りないと感じ、頬を膨らませる整形手術を決断する。美容整形が珍しかった時代である。

 古い記事ですが偶然見つけたので紹介しておきます。
 なお、田中の映画監督業については以前、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート149(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート150(追記・訂正あり) - bogus-simotukareのブログ「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年12/5日分:荒木和博の巻) - bogus-simotukareのブログで触れています。
 それにしても

大女優でもある田中絹代監督

て。思わず吹き出しました。

【参考:坂根田鶴子】

坂根田鶴子 - Wikipedia
 1904~1975年。溝口健二の下で助監督としてキャリアを積み、1936年に『初姿』を監督して、日本最初の女性映画監督となった。
◆生涯
 映画業界を志し、父に紹介されて1929年に日活京都太秦撮影所に監督助手として就職した。そこで田鶴子は前任者の合田光枝(女優原節子(1920~2015年。本名・合田昌江)の実姉)と入れ替わる形で映画監督・溝口健二(1898~1956年)の下につくことになり、健二・千枝子(千恵子とも、本名:田島かね)夫妻の知己を得た。以降、田鶴子は溝口組の一員として映画作りに携わり、実務を学んでいく。
 1932年に溝口が日活を退社して新興キネマへ移ると田鶴子も誘われて同社へ移った(以降、溝口が会社を移ると田鶴子もそれについていくことになるが、当時の映画業界は徒弟制度の性格が強かったため、このようなことがよく起こった)。溝口はそこで『滝の白糸』(1933年)や『祇園祭』(1933年)、『神風連』(1934年)と続けて撮り、田鶴子は監督助手として溝口を助けた。1933年、「滝の白糸」を共同制作した入江プロから田鶴子に監督をやってみないかという声がかかったが、結局実現しなかった。1934年に溝口は田鶴子を連れて、日活多摩川撮影所へ入社した。このころ、再び田鶴子に監督昇進の声がかかったが、実現に至らなかった。このとき、田鶴子はウェブスターの『足長おじさん』の映画化を企画していたという。失意の田鶴子は溝口に誘われるままに再び京都に戻り、できたばかりの第一映画に入社した。田鶴子は溝口の下で『折鶴お千』、『マリヤのお雪』、『虞美人草』(すべて1935年)の助監督を務めた。
 32歳の田鶴子に再び監督昇進の声がかかった。ここに至ってようやく実現し、田鶴子は小杉天外の『はつ姿』を映画化することになった。溝口も監督補導として作品に名前を連ねている。映画は完成し、1936年3月5日に封切られた。こうして坂根田鶴子は日本初の女性映画監督となった。しかし『初姿』は興業的には成功せず、批評家からも良い評判が得られなかった。
 当時は映画産業の隆盛期で人材も流動していた時代、溝口は経営状況の悪化した第一映画を離れ、新興キネマ、松竹下加茂撮影所と職場を移していく。田鶴子は溝口の後をついていった。そこで生まれたのが溝口『残菊物語』(1940年)、『浪花女』(1940年)であった。
 この頃、田鶴子はどうしてもまた監督がやりたいと思い、溝口の推薦をもらって理研科学映画株式会社へ入社した。そこで彼女は北海道に赴いて、アイヌの暮らしをテーマにしたドキュメンタリー『北の同胞』(1941年)を撮影した。
 この頃、田鶴子とも親交の深かった溝口の妻千恵子が精神に変調をきたし、京都府立病院へ入院した。千恵子の入院当日も溝口は撮影所に赴いて仕事を続けたため、話を聞いていたスタッフたちはあっけにとられた。千恵子の入院で混乱したこの時期に溝口は田鶴子にプロポーズしたという。しかし1942年に田鶴子はプロポーズを断り、満州に渡って満洲映画協会満映)に入社した。田鶴子は即戦力として啓民映画部に所属することになった。
 新京到着後、さっそく満映で『勤労的女性』を作り上げた田鶴子は続けて『健康的小国民』、『開拓の花嫁』、『野菜の貯蔵』、『暖房の焚き方』、『室内園芸』、『春の園芸』、『救急ノ基本』、『基本救急法』などを仕上げた。しかし、1945年8月15日に日本は無条件降伏、8月20日ソ連軍が新京に到着。日本に帰れる目処もたたないまま、満映ソ連軍に接収された。やがてソ連軍と入れ替わりに進駐してきた八路軍によって満映のスタッフの一部は東北電影公司に採用され、田鶴子もそこで職を得た。1946年8月に帰国を許され、同年10月21日、田鶴子は50名の日本人と共に日本の土を踏んだ。
 京都の実家に戻った田鶴子は下加茂撮影所に溝口を訪ねた。溝口は再び田鶴子を松竹に戻してくれた。しかし、松竹内での勢力争いもあって田鶴子は助監督として入社できず、編集課の記録係としての採用になった。溝口にとっても、すでに田鶴子は過去の存在であった。

*1:坂根の存在を知らなかった田中が「私の履歴書」にそう書いたのかもしれませんが「初」というのは間違いで初の女性映画監督は「坂根田鶴子」であり、田中は2番目です(あるいは「初の女優映画監督」と言えば間違いではない)。なお、坂根は坂根田鶴子 - Wikipediaによれば「溝口健二の助監督」だったそうで、新藤兼人の映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』にも出演しているとのこと。この点、「一時は溝口映画の常連出演者だった田中」と「溝口人脈つながり」という共通点があります。