珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年3/17日分)

非人道的な殺戮が続くマリウポリ - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 マリウポリから避難してきた女性が、劇場への爆撃を語っている。
「破壊された街を見ると、恐怖と悲しみで胸が絞めつけられます。」
「でも憎しみや怒りの感情は持ちたくありません。憎しみと怒りこそが戦争を生むのです。憎しみはもう消えてほしい。憎しみこそが殺りくや破壊につながるのですから」
 極限といってもいい状況で、こんなことを語るこの女性を心から尊敬する。
 政治をどう変えるかということと並んで、自分のなかにある無明*1(むみょう)を克服する努力が人類みなに求められていると思う。

 と偉そうなことを抜かすのなら高世は、拉致被害者家族会に「北朝鮮への憎しみは捨てて拉致被害者救出のために何が必要かだけ考えよう。バーター取引も選択肢に入れるべきではないか?」「自分は無明(無知)なのだと思って様々な人(例:和田春樹氏)の意見(例:バーター取引論)に虚心に耳を傾けるべきだ」、あるいは横田早紀江に「北朝鮮への憎しみは捨ててお孫さんともっと会うべきだ」と今からでも言うべきではないのか?


「最後まで誇りをもって戦う」とキエフ市民 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 NHK「クロ現」で、新田義貴さんがウクライナの首都キエフからリポートしていた。(余計な情報だが、名前で分かるとおり、新田義貞がご先祖だそうだ)

 よほどの根拠がない限り「家系図捏造による嘘」でしょう。ちなみに徳川家康家系図捏造で「新田氏の子孫・世良田氏」の子孫だと自称しています。
 群馬県太田市世良田町(義貞の子孫・世良田氏が住んでいたとされる、なお、義貞は群馬県太田市新田に住んでいたとされる)には家康を祭神とする「世良田東照宮」つうのがあります。栃木県日光市にある日光東照宮の支店みたいなもんです。太田市と言えば世良田氏が創建したという言い伝えから、徳川氏の庇護を受けた満徳寺(鎌倉の東慶寺と共に江戸時代の縁切寺として有名)もあって歴史的には徳川氏とつながりの深いところです。

新田:
 今朝、キエフに来る途中、ヒッチハイクの女性を車に乗せました。
 彼女は看護師で、これから軍の病院で負傷した兵士の治療にボランティアで携わるとのことでした。
 なぜ避難しないのかと尋ねると、ここは自分が生まれ育った愛する土地なのだから、最後まで誇りをもって戦いたい、と語りました。

 新田さんのリポートに登場する看護師の女性の決意に、私はとても高貴なものを感じる。

 勿論ロシアの侵攻は無法です。
 ウクライナ国民が「愛国心に燃える」のもわからなくはない。
 しかし職業軍人ならともかく一般市民の一部が「銃を持って最後まで戦う」と言い出すことを俺は高世のように「無邪気に礼賛する気にはなりません」。
 あまりにも犠牲が大きすぎるからです。それはもはや「沖縄戦状態」ではないか。
 勿論「犠牲を減らすために降伏しろ」という気もないですが、正直「日本」という安全地帯から無責任に「抗戦」を美化することには躊躇を感じます。特に職業軍人ならともかく「新田リポートに登場する女性看護師」のような人間が避難しないことを安易に美化していいのか。 
 高世にはそうした躊躇はないようですが。

常岡浩介がリツイート
◆ピーチ太郎2nd
ウクライナ国民の抵抗】
小泉悠*2「自国が侵略された時に、国民が抵抗するのがそんなに不思議か」
反町理*3「民間人が戦えば、軍vs軍という形から外れて危険な状況になるという危惧がある」

での反町氏や

最悪の場合「ベルリン市街戦」に至る日本世論、歴史に学んでいるように見えて経験に学ぶ愚者たる日本世論: 白頭の革命精神な日記
 市民を無理やり戦わせていない点において「ベルリン市街戦」とは違うと言えるかもしれませんが、戦況を見誤ることで市民の避難が遅れて「スターリングラード攻防戦」のような事態に陥る危険性は十分にあります。

などの躊躇には俺は共感します(常岡や小泉にはそうした躊躇はなさそうですが)。
 またそういう「民間武装団体」に果たして問題はないのか。国がまともにコントロールできない上に「ロシアと戦う英雄」イメージをいいことに、「一部のバカ限定(多数派はまとも)」だとしても「無法を働いてる」ような問題は本当にないのか。いろいろと疑問を感じますね。

 非常に不謹慎な言い方になるかもしれないが、ウクライナが頑張って抵抗すればそれだけ、自由を求める人々を抑えることはできないこと、他国を侵略すれば痛い目にあうことを世界に示すことになる。そして将来の侵略行為を抑止するだろう。
 こう考えれば、ウクライナの人々の戦いは、ウクライナだけのためではなく、世界のすべての人々のためなのだ。つまり、私たちのために戦ってくれているのだ。

 ウクライナ人は「自分のために戦ってる」のであってそれ以上でもそれ以下でもないのでこうした高世の物言いは不謹慎、傲慢、身勝手だと俺は思います。勿論、ウクライナ人が「自分のためにロシアに降伏する」のも俺的には「あり」です。勿論『降伏しろ』とは言いませんが。
 基本的には「ウクライナ人の未来はウクライナ人が決めること」という基本は押さえておくべきでしょう。
 欧米のウクライナ支援も「ウクライナ人の要請に応えてる」のであって、そこを忘れたら「ロシア叩きの道具にウクライナ人を使ってる醜態」にしかなりません。
 なお、「北朝鮮叩きの道具に拉致被害者を使った醜態」が救う会拉致議連であり、そうした醜態に加担してきたのが高世です。

【参考:新田義貞

新田義貞 - Wikipedia
 1301~1338年。
 鎌倉時代において将軍・源頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係も結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、新田氏は名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった。
 建武の乱以前の義貞は尊氏指揮下の一部将であったとする研究者もある。近年では「新田氏宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする見解も出されている。
◆幕府への反抗
 義貞が鎌倉幕府(北条氏)に反逆した決定的な要因は、幕府の使者・黒沼彦四郎との衝突から生じた彼の殺害にあった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令。黒沼は6万貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限を設けて納入を迫ってきた。そのため、遂に義貞は憤激し、黒沼を斬り殺し、その首は晒された。これに対して、得宗北条高時は義貞討伐を決定した。
建武政権下の義貞
 義貞は従四位に叙された。一方、ライバルの足利尊氏は、従三位に叙された上、鎮守府将軍に任ぜられた。義貞の役職と尊氏の役職では雲泥の差があり、また国司として拝領した国も、新田兄弟が拝領したものは北条氏の傍流のものであったのに対し、足利兄弟が拝領したのはかつて北条得宗家が統治していた国であった。既に、新田と足利の差は歴然としたものがあった。田中大喜*4は、鎌倉幕府での足利氏-新田氏の支配・従属関係がそのまま建武政権内での地位に反映されたとする。
◆尊氏討伐の決定
 足利直義(尊氏の実弟)による護良親王殺害が事実と判明したことで後醍醐天皇は義貞に尊氏・直義追討の宣旨を発した。田中大喜はこの討伐軍の大将任命こそが、足利氏と新田氏の支配・従属関係を終焉させ、新田氏(新田義貞)が足利氏(足利尊氏)から「自立」した瞬間であるとしている。
◆死後
 義貞の戦死(1338年)は南朝側にとっては、同時期の北畠顕家の戦死と相まって決定的な打撃であった。
 義貞の死から500年以上のち、彼は朝廷のために尽し続けた「忠臣」「英雄」として再評価されるようになり、明治15年(1882年)8月7日に義貞は正一位贈位された。また、それに先立つ明治3年(1870年)には、福井知藩事・松平茂昭(元・福井藩主)は新田義貞のために祠を建て、明治9年(1876年)には「藤島神社」として別格官幣社に列された。
◆子孫
 室町時代を通じて新田氏は「朝敵」「逆賊」(いずれも北朝から見て)として討伐の対象となった。義貞の直系は、新田貞方(新田義貞の孫)が息子の貞邦と共に鎌倉で処刑され、断絶した。
 一方、岩松満純は新田義宗新田義貞の息子)の落胤だが、岩松氏の養子に迎えられたと自称した。満純の子孫である岩松氏は、新田氏の故地である新田金山城を本拠とした。しかし、戦国時代には岩松氏は重臣の由良氏に下克上されて没落した。新田一族の末裔を称する徳川家康が関東に入部したとき、岩松氏の当主・守純が召し出されて新田氏の系図の提出を求められた際にこれを拒否したため、守純は徳川氏の直臣となったが禄高はわずか20石を与えられただけであった。岩松氏は守純の孫・秀純の代に、新田宗家として交代寄合の格式を与えられながら、新田氏を姓とすることは許されず、禄高も100石加増されただけで、交代寄合としては最低格の合計120石を知行するだけであった。また、岩松氏の重臣で戦国時代に主家を下克上した由良氏(江戸幕府において高家旗本)も新田義宗の子孫を自称している。
 明治維新後に岩松氏、由良氏ともに明治政府に義宗の子孫として認定され、新田氏に復姓した。いずれが新田氏の嫡流かを巡って争った末、岩松氏が嫡流と認められ、新田(岩松)俊純(1829~1894年)が明治17年1884年)に男爵に叙されている。
◆伝説
 建武の乱で播磨国に対する遅れた出兵について、『太平記』は、藤原行房の娘・勾当内侍との色恋沙汰にうつつをぬかしていたと叙述し、これゆえ勝機を逃したと批判している。しかし、勾当内侍との色恋沙汰により出陣が遅れたことについては、太平記以外に明確な典拠がなく、創作の可能性も高い。また『太平記』における『義貞が勾当内侍と色恋沙汰に落ちていたという時期』は、実際は義貞が瘧病(おこりびょう)という名のマラリア性の熱病に伏せていた時期ではないかという説もある。
 近年では勾当内侍の存在自体を疑問視する声もある。

*1:仏教用語で無知であること

*2:東京大学専任講師。著書『軍事大国ロシア』(2016年、作品社)、『プーチンの国家戦略』(2016年、東京堂出版)、『「帝国」ロシアの地政学』(2019年、東京堂出版)、『現代ロシアの軍事戦略』(2021年、ちくま新書)など

*3:フジテレビ解説委員長(取締役兼務)。『BSフジLIVE プライムニュース』キャスター。著書『聞き出す技術』(2020年、扶桑社新書

*4:国立歴史民俗博物館准教授。著書『新田一族の中世』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『足利氏と新田氏』(2021年、吉川弘文館)など