黒坂真に突っ込む(2020年2月10日分)

◆黒坂ツイートにコメント

黒坂真
 中野顕さん。(ボーガス注:右翼の)反共攻撃と(ボーガス注:共産党など野党の)反安倍攻撃は、対象が違うだけで手法はほとんど同じですよ。

 おいおいですね。
 野党の安倍批判は「モリカケ桜を見る会などの疑惑」「違憲の安保関連法」「脱原発」など政策を元にした批判です。
 一方、共産党が問題にする「反共攻撃」は「先日の京都市長選での反共広告」など、「共産だから駄目」という政策でも何でもないただの「レベルの低い反共主義」です(そもそも、れいわも支持する福山候補を共産主義云々言うこと自体も不適切ですし、『それならば、なぜ自民は大阪市長選で共産党と共闘したのか?。大阪と京都と何が違うのか?』『それならば、なぜ立民、国民民主、社民は沖縄県知事選で共産党と共闘したのか?。京都と沖縄と何が違うのか?』と言う話ですが)。
 誰も「政策など正当な理由でも共産党を批判するな」などとはいってない。
 本気で「共産党などが批判する類のレベルの低い反共攻撃」と「安倍批判」が一緒に見えるのならただのバカです。
 というか、まともな人間ならいかに保守派でもあんなレベルの反共攻撃を正当化したいとは思わないでしょう。 

三浦小太郎に突っ込む(2020年2月10日分)(注:映画『ノンちゃん雲に乗る』のネタばらしがあります)

「上海陸戦隊」上映会へのご参加ありがとうございました | 三浦小太郎BLOG Blue Moon
 三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログで紹介した三浦記事東京新風倶楽部 映画上映会(2月9日)のお知らせ 「上海陸戦隊」(昭和14年) | 三浦小太郎BLOG Blue Moonの続きです。

 関心を持って拡散などしてくださった皆様、誠にありがとうございました。かなり寒い気候の中、15名ほどの方が参加してくださいました。

 拡散をしたというのが事実なら不特定多数に宣伝したわけですが、それで「参加者15人」つうのは「ええ?」ですね。
 そもそも何人募集していたのか。15人しか最初から募集していなかったのか、はたまたもっと多かったのに「15人しか集まらなかった」のか。
 どっちにしろこれではもはや「上映会」と呼べる代物ではないし、「不特定多数の募集をかけること」に意味があるのかすら怪しい。
 結局の所、「三浦の知り合い(ウヨ活動仲間)に声をかけていつもの特定メンバー」という話ではないのか。

 「上海陸戦隊」を上映したかったのは、原節子という女優を少し多角的に見てほしかったという思いもあります。彼女がなくなった時、日本映画史に残る偉大な女優として讃えられたのは勿論何ら異論はなかったのですが、私の見たり読んだりした限り、彼女の作品としては、戦後の小津安二郎との作品ばかりが取り上げられる傾向があったように思います。

 三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが

・『わが青春に悔なし』(黒澤明監督、1946年)
・『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督、1947年)
・『お嬢さん乾杯』(木下惠介監督、1949年)
・『青い山脈*1』、『続・青い山脈』(今井正監督、1949年)
・『晩春*2』(小津安二郎監督、1949年)
・『白痴*3』(黒澤明監督、1951年)
・『麦秋』(小津安二郎監督、1951年)
・『めし*4』(成瀬巳喜男監督、1951年)
・『東京物語』(小津安二郎監督、1953年)
・『山の音*5』(成瀬巳喜男監督、1954年)
・『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人監督、1955年)
・『東京暮色』(小津安二郎*6監督、1957年)
・『智恵子抄』(熊谷久虎監督、1957年)
・『秋日和』(小津安二郎監督、1960年)
・『小早川家の秋』(小津安二郎監督、1961年)
・『娘と私』(堀川弘通監督、1962年)獅子文六の妻・千鶴子(獅子文六の自伝の映画化)
・『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩監督、1962年)大石内蔵助の妻・りく(原が出演した最後の映画作品)

ということで「戦後において出演作品は小津作品ばかりではない(今井正木下恵介黒澤明成瀬巳喜男作品などにも出演)」のですが、やはり代表作というと小津なんですかね。
 それはともかく、三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも指摘しましたが、そりゃ戦前の作品においては彼女の出演映画は

◆『河内山宗俊』(山中貞雄監督、1936年)
◆日独合作国策映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督(ドイツ人、ナチス党員)、1937年)
 『新しき土』とは満州のことを指しており、ラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている(ウィキペディア『新しき土』参照)。
◆『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔山本嘉次郎監督、1939年)
◆『上海陸戦隊』(熊谷久虎監督、1939年)
◆『ハワイ・マレー沖海戦』(山本嘉次郎監督、1942年)
◆『決戦の大空へ』(渡辺邦男監督、1943年)

ということで「端役が多い」あるいは「それなりに重要な役の場合でも、国策映画出演が多くつまらない(かつ太平洋戦争、日中戦争美化なので政治的にも適切でない)」から戦後は語られないでしょうよ。
 「上海陸戦隊」は三浦曰く

原節子は中国人避難民の女性を演じ、最初のうちは、日本軍が渡そうとする食糧を拒否し、受け取ろうとする避難民女性たちを「そんな敵のものを受け取っちゃいけない」と激高するかたくなな姿を演じています。
 その彼女が、次第に日本軍の優しさに目覚め、兵士の無事を祈るようになり、そっと最期の突撃を見守る

というのだから完全な日本軍美化映画です。原にとって黒歴史でしかないでしょう。
 まあ、「戦前美化右翼」三浦の場合、そうした「戦争美化国策作品の原節子」こそを宣伝したいのでしょうが。
 単に三浦が

原節子という女優を少し多角的に見てほしかったという思いもあります。彼女がなくなった時、日本映画史に残る偉大な女優として讃えられたのは勿論何ら異論はなかったのですが、私の見たり読んだりした限り、彼女の作品としては、戦後の小津安二郎との作品ばかりが取り上げられる傾向があった

というだけなら「日本軍美化の国策映画」ではなく

・『河内山宗俊』(山中貞雄*7監督、1936年)
・『忠臣蔵』前後編(滝沢英輔*8山本嘉次郎*9監督、1939年)
・『わが青春に悔なし』(黒澤明*10監督、1946年)
・『安城家の舞踏会』(吉村公三郎*11監督、1947年)
・『お嬢さん乾杯』(木下惠介*12監督、1949年)
・『青い山脈』、『続・青い山脈』(今井正*13監督、1949年)
・『白痴』(黒澤明監督、1951年)
『めし』成瀬巳喜男*14監督、1951年)
・『山の音』(成瀬巳喜男監督、1954年)
・『ノンちゃん雲に乗る』(倉田文人監督、1955年)
・『智恵子抄』(熊谷久虎監督、1957年)
・『娘と私』(堀川弘通*15監督、1962年)獅子文六の妻・千鶴子(獅子文六の自伝の映画化)
・『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩*16監督、1962年)大石内蔵助の妻・りく(原が出演した最後の映画作品)

などという「国策映画でない」「小津映画以外の作品」を取り上げればいい話です。
 なお、以前三浦小太郎に突っ込む(2020年1月16日分) - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが原の「戦前最大の出世作」は、日独合作国策映画『新しき土』(1937年公開)です。1937年当時の原節子(1920~2015年)はまだ17歳であり、デビューが1935年(15歳)です。それが国策映画のヒロイン(主演女優)ですから大抜擢とは言えるでしょう。

◆新しき土(ウィキペディア参照)
 1937年3月26日に原はベルリンに到着。アドルフ・ヒトラー総統はじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたという。ドイツ宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された(ちなみに日独合作映画『新しき土』の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国政府関係者の往来をカモフラージュする目的もあったといわれる)。

という面白エピソードもあります。
 とはいえ今となっては完全に忘れ去られた映画です。こんな映画を知ってるのはよほどの映画通(原節子がヒロインとして出演、伊丹万作*17が脚本を担当)か、よほどのナチドイツマニアぐらいのもんでしょう。
 そりゃ当たり前でしょう。「日独合作で満州国正当化」なんて映画は今見て面白いわけもないし、政治的にも問題がありすぎます。

 監督の熊谷は、原節子と共に30年代のドイツやアメリカを旅し、その地での有色人種へのひどい差別を肌身で体験、帰国後は「スメラ塾」という神秘主義的な日本主義の団体に参加していきます。しかし、作家がイデオロギーや政治に走れば作品としての完成度は落ちていくことが多く、この「上海陸戦隊」が熊谷としては最後の成功作で、以後やはり原節子を出演させた「指導物語」は失敗に終わりました。
 その後は映画よりも政治運動、思想運動に身を置くようになりましたが、敗戦後は戦争協力者として批判を受け、ほとんど沈黙を守りつつ隠遁生活を送り、80年代に亡くなりました。彼は戦後の原節子の活躍をどう見ていたのか、そのことだけは書き残してほしかった気もしますが、逆に、沈黙のうちに去ることこそふさわしいと思っていたのかもしれません。

 ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」によれば熊谷は原の「義兄(原の姉の夫)」で、どこまで本気なのか(つまり『映画業界の先輩に当たる人物の上に義兄』では馬鹿にするわけにもいかず適当に調子を合わせた可能性があると言うことですが)はともかく、原も戦中は「熊谷的なトンデモ極右発言があった」らしいです。
 なお、戦後、熊谷は映画製作をしなかった、原ともつながりがなかったかのように書く三浦ですが、ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」によれば

◆白魚(1953年)*18
◆ノンちゃん雲に乗る(1955年)
◆あらすじ
 8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんと兄ちゃんが自分に黙って出かけたので、悲しくて泣いていた。木の上からひょうたん池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまう。気がつくとそこは水の中の空の上。雲の上には白いひげを生やしたおじいさんがいて、熊手ですくって助けてくれた。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族の身の上を打ち明ける。
◆スタッフ
・監督:倉田文人*19
・製作:熊谷久虎、中田博二*20
・原作:石井桃子*21
・配給:新東宝
◆キャスト
・ノンちゃん:鰐淵晴子
・お母さん:原節子
・お父さん:藤田進*22
・おじいさん:徳川夢声*23
◆エピソード
 1953年、映画『白魚』(熊谷久虎監督)の御殿場駅での撮影中に原の眼前で実兄・会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手・伊藤哲夫と共に列車にはねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭った。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり引退をささやかれるようになった。しかし、1955年、『ノンちゃん雲に乗る』で復帰、引退説を払拭した。この映画で初めて母親役を演じた。
智恵子抄(1957年)
◆スタッフ
・監督:熊谷久虎
・製作:田中友幸*24
・配給:東宝
◆キャスト
高村光太郎山村聡*25
高村智恵子原節子

ということで熊谷が制作者(プロデューサー)や監督ですし、上に書いたように原も出演しています。
 「戦後、失意のウチに死んだ」と思わせたいが故に、三浦が「熊谷による映画製作」を故意に隠してる気がしますね。
 まあ、ウィキペディア熊谷久虎」「原節子」を見るだけで分かることを隠すとは「三浦も姑息な野郎だ」とは思います。
 まあ、「どういう経緯で熊谷が映画製作に関わったのか」「こうした映画製作について熊谷がどう思っていたか」「興行的に成功したり、当時の映画評論家に高い評価をされたりしたのか」など詳しいことが分からないとなんとも言えませんが、果たして、戦後、三浦が言うほど隠遁生活だったのかどうかは疑問符がつくかと思います。


【参考:ノンちゃん雲に乗る】

ノンちゃん 雲に乗る
・この『ノンちゃん雲に乗る』がぼくの子供時代のバイブルだった。
・また、絵本でない最初の書物でもあった。
 童話にしてはやたらに長い。10ポの活字で250ページにおよぶ。漢字も多かった。今はその当時の本が手元にないのでわからないのだが、それでも簡約版やリライト本を読んだのではなく、原作をそのまま読んだのだとおもう。総ルビだった。
・それがさて何歳のときのことだったかはっきりしないのだが、いま調べると、大地書房の『ノンちゃん雲に乗る』の初版本が昭和22年の1947年、第1回芸術選奨の文部大臣賞を受けたのが1951年のようだから、そのちょっとあとくらいだろう。7歳か8歳くらいのことだ。ともかくも、ぼくにとっては『ノンちゃん』こそが絵本ではなく書物といえるものを読んだ記念すべき第1弾だったのだ。
 ぼくはこれをきっかけに、アンデルセンやグリムや日本の昔話を、壺井栄の『二十四の瞳*26』や『柿の木のある家』や『母のない子と子のない母と*27』を、そして偕成社講談社の名作世界文学全集を片っ端から読むようになっていった。毎晩、読んだ。
 しかし曖昧な記憶もある。『ノンちゃん雲に乗る』はすぐに映画になった。ノンちゃんに扮したのはヴァイオリンが上手な天才少女と騒がれていた鰐渕晴子で、ぼくはこの銀幕のなかの美少女に魂を奪われるほどに恋をした。
・しばらくは寝ても醒めても鰐渕晴子だったのだ。だからひょっとするとこの映画の記憶のほうがぼくの読書体験を甘美なほうへひっぱっているのかもしれない。
石井桃子という人は、ぼくが尊敬している作家で翻訳者である。戦前から翻訳をしていて、ミルン*28の『クマのプーさん*29』、ドッジの『ハンス・ブリンカー*30』、ガーネットの『フクロ小路一番地*31』、バートンの『せいめいのれきし』や『ちいさいおうち』はみんな石井桃子の翻訳だった。新潮社にいたときは山本有三*32監修の「日本少国民文庫」の編集を担当し、岩波書店に移ってからは「岩波少年文庫」や「岩波子どもの本」を編集した。
 第55夜の「ドリトル先生」のところでも書いたように、あの翻訳を井伏鱒二にまかしたのも、出版したのも石井桃子だった。
・その石井桃子が満を持して創作童話にとりくみ、デビュー作として発表されたのが『ノンちゃん雲に乗る』である。あとで知ったことだが、かなり話題になった。
・ところで去年(2004)の「ユリイカ」1月号が『クマのプーさん』を特集し、巻頭に石井桃子のインタビューを載せていた。96歳になったというのに、美しく逞しい。アラン・ミルンの自伝の翻訳にとりくんでいる最中だという。
附記:
 石井桃子は1907年に浦和に生まれた。日本女子大の英文科の出身。20年ほど前に大阪児童文学館の開館記念に「はばたけ児童文学・石井桃子の世界から」という展示を見たのだが、その業績はまことに広い。作品・エッセイ・論文を読むには、河合隼雄*33天沢退二郎*34金井美恵子らが解説を担当した『石井桃子集』全7巻(岩波書店)がある。

ノンちゃん雲に乗る(1955)
 小学三年生のノンちゃん(鰐淵晴子)は、母(原節子)が無断で東京に行ってしまったのが悲しくて、泣き歩いていた。そんな自分を慰めようと木に登っていた所、池に落ちてしまう。そんな彼女を助けてくれたのは、雲の上に住む老人(徳川夢声)だった。
 石井桃子の原作を倉田文人監督が撮った。当時のベストセラーの映画化で、主演に「天才少女バイオリニスト」として売り出し中だった鰐淵晴子が出演するとあって、話題性には事欠かなかっただろう。鰐淵晴子は、その後本格的な女優として活躍したのを見ても分かるように、当時から非凡な容姿と演技力を見せつけている。対する徳川夢声も原作の雰囲気にあった老人の味をよく出した演技で応えている。
 当時の田舎の比較的裕福な農村の子供達の生活の様子が偲ばれる作品で、そのあたりも興味深い。

■日本映画の感想文■ノンちゃん雲に乗る
 体が弱いため東京から田舎に超してきたノンちゃん(鰐淵晴子)は、ノンちゃんに内緒で東京のおばあちゃんのところへ出かけたお母さん(原節子)とお兄ちゃんにおいてけぼりにされて号泣。空に浮かぶ雲のように東京へ飛んで行きたいなあと、木の枝にまたがって飛ぶまねをしていたノンちゃんは過って池に落ちてしまう。
 いつのまにか雲の上にいたノンちゃんは白髪のおじいさん(徳川夢声)と出会う。おじいさんは、常日頃からノンちゃんと仲の悪いデブも呼び寄せ、三人で仲良くおしゃべりをする。ノンちゃんが、デブがしょっちゅう自分をいじめること、お兄ちゃんが乱暴なこと、お父さん(藤田進)とお母さんが大好きなことを話すと、おじいさんはとても楽しそうに聞いてくれた。
 雲の上にはほかにもたくさんの「哀しい心」を持った人がいて、おじいさんはその人達を大きな「くまで」で拾い上げお話しを聞いてあげるのが仕事なのだと言う。ノンちゃんもその一人。雲の上の子供達と一緒に遊んだ後、ノンちゃんは家に帰って行った。
 気が付くとノンちゃんは布団に寝かされていた。池に落ちたノンちゃんを心配した飼い犬のエスが近所の人に知らせてくれたのだった。お母さんとお兄ちゃんとも会えたノンちゃんは元気になって学校へ行く。雲から戻って来たノンちゃんにとっては全てが新鮮で、デブもなんとなく優しくなったような気がする。ノンちゃんは世界中の人達のお話しを聞いて回っているおじいさんの事を懐かしく思い出していた。
 小さい頃の記憶というのは曖昧ですねえ。小学生の時以来、つい最近見直すまで「ノンちゃんは寝ていて夢を見た」と思い込んでまして、まさか私の知らないうちに(ボーガス注:池に落ちて?)生死の境を彷徨っていたとはねえ。
 これって臨死体験の映画なんですよね。
 雲のような場所でふわふらしていたとか、先に死んだ人達の声が聞こえるとか、白髪のおじいさんとか、よく考えると丹波哲郎の「大霊界」っぽいですね。ちょっと比較対象例に難ありますけど。
 「銀河鉄道の夜」(ボーガス注:でザネリを助けようとして死んだカムパネルラ)のようにデブなガキ大将が実はノンちゃんを助けようとして死んでたらどうしようと思いましたが、どっこいセーフでした。つまり、寂しかったのはノンちゃんだけではなく、陽気な外見とは裏腹に肥満児でハゲのこの少年にもはかり知れぬ悩みがあったということですね。たぶん、容姿に関する問題だと思いますけども。
 「寂しいのは君だけじゃないんだよ」と言う事ですね。いつもノンちゃんを厳しく指導するお兄ちゃんも、いざとなれば苛められているノンちゃんを助けてくれたりしますし、なんだかんだ色々苦労はあってもノンちゃん、美人なんだもん。おまけにヴァイオリン弾けるしバレエも踊れるし。
 この映画からいろんな事が学びとれますね、例えば「デブ(はともかく)であれ美人であれ人間誰しも悩みはある」「子供はいつでも自己中心的である」「犬の尻尾は急所だから気を付けよう」「美人でやさしくておまけに色気まであるお母さんがいたらかなりうれしい」など。
 お母さんが原節子はいいんですが、お父さんが藤田進というのはいかがなものでしょう、と思いましたが、冒頭イキナリ登場するノンちゃんの泣き方が「シクシク」という女の子らしさや「ギャーギャー」という子供らしさのまったく感じられない「ウオー!ウオー!」という男泣き状態の号泣だったので、この親子関係はとても説得力があったのでした。
 この映画、今どきの親子のみなさんにはぜひ見ていただきたい。そして「きれいな日本語」をちゃんと聞いて記憶に残しておいて欲しいですね。きれいな日本語には、相手の立場を尊重する礼儀正しさがあります。たとえ親子でも兄弟でも。そういうの勉強しようと思ったら古い日本映画を見るに限りますね。

ノンちゃん雲に乗る
 石井桃子原作の児童文学を映画化したこの作品は文部省選定作品で、情操教育の一環として各地の小学校の体育館や講堂で上映されたので、団塊世代と、その前後の世代の人にとっては懐かしく思う人も多いでしょう。
 僕自身は講堂や体育館ではなく、高校生の時にテレビ放映されたのを見たのですが、当時、すでに妖艶な美女となっていた鰐淵晴子さんが、昔はこんなに可愛らしい子供だったということにまず驚きました。、
 それと、怪獣映画やウルトラセブンの長官としておなじみだった藤田進さんが、昔はこんなに”いい顔”だったことにもビックリしました。
 時を経て、社会人になって、ビデオで再見した時に、この映画の良さをしみじみと感じました。
 この映画は子供向けではあるけれど、大人になってからでないとわからないような深い意味がこめられてるのに気づいたからです。
 それは雲の上の仙人のようなおじいちゃん(徳川夢声さん)の言葉によく表れてます。
 甘えっ子だけど、クラスの級長に選ばれたりする優等生タイプのノンちゃん。
 自分では良かれと思って本当のことを先生に言っても、ガキ大将の長吉には、それが自分への”悪口”と聞こえるってことまでノンちゃんは気づかない。
 当然、ノンちゃんと長吉は勉強が出来る”良い子”と落ちこぼれの”やんちゃ坊主”という関係で仲が悪いのです。
 ノンちゃんに対しては意地悪でイジメっ子な長吉にも、子供らしい悩みがあり、おとうさんにしかられて、落ち込んでるところを仙人のおじいさんに呼び寄せられ、ノンちゃんと雲の上で対面します。
 優等生タイプで、大人から”良い子”と見られる子供が陥りやすい人生の落とし穴を、仙人のおじいさんはノンちゃんに「シャクシジョウギはいかんよ」と、それとなく諭すのです。
 また、ノンちゃんに対して、えらそうに兄貴風を吹かせてるおにいちゃんのタケシも、いざという時はノンちゃんを助けにインデァンごっこの子供たちを追っ払ってくれる妹思いな兄であることも描かれてます。
 また、タケシは家族の中で誰よりも犬のエスと仲良しでもあり、元来は優しい性格であることがわかります。
 ノンちゃん、長吉、タケシという3人の子供はそれぞれがタイプはちがうけど、大人が描く”理想の子供”ではなく、それなりに欠点と長所を持ち合わせた普通の子供、子供らしい子供として描かれてます。
 やんちゃなおにいちゃんとして描かれてるタケシも、今の眼で見ると、あきれるほど純情で素直です。
 藤田進さん演じるおとうさんが、危険な”飛び出し”遊びをして、トラック運転手(若い頃の名古屋章さん)を困らせてるタケシを叱るシーン、とても説得力のある叱り方です。
 たぶん石井桃子さんの原作からそうだと思われるのですが、この映画は子供のためだけでなく、子供を持つおとうさん、おかあさんへ向けて作られた作品でもあります。
 大人に対して、仙人のおじいさんの言葉にある”しゃくしじょうぎ”で子供を計ってはいけないってことと、藤田進おとうさんのように、しっかりと筋道をたてて叱れば、子供は反省し、成長するんだってメッセージが託されているからです。
 この映画は変に物分りの良い子は描かずに、子供って本来は自己中心的なものだという観点で、子供の心を追ってます。
 特に、信じてたおかあさん(原節子さん)にまで裏切られたと思ったノンちゃんの悲しみは相当に胸にせまってきて、かつて自分の子供時代にも大人に約束を破られた時の悲しさがよみがえるほどです。
 いろんな思考回路で自分を納得させる術を身に付けた大人とちがい、ノンちゃんのような子供は、たとえクラスの級長でも、ただただ悲しい時は一途に悲しいのです。
 ノンちゃんの派手な泣きっぷりが身につまされます。
 ところで、この映画のポスターはノンちゃん(鰐淵晴子さん)ではなく、中心に原節子さんの笑顔が大きくコラージュされてます。
 資料によると、この作品は原節子さんの1年5ヶ月ぶりの復帰作ということで話題になったらしいです。。
 当時まだ、トップスタアだった日本映画最大のヒロイン、原節子さんの魅力とは、いったいなんだったのでしょう?
 僕は、育ちの良さを感じさせる、おおらかな雰囲気と”色気”があることだと思います。
 もちろん、”色気”って言ったって、性的な意味でなく、われわれ男性同性愛者から見ても、たぶん女性から見ても感じられるような立ち振る舞いの上品さからくる”色気”です。
 この映画では、たまたま理想のおかあさんを演じてるので、原さんが大女優なのは男性にとっての”よく出来た”理想の女性像だと勝手に解釈してました。
 しかし、その後、数々の原節子作品を見てゆくうちに、わがままだったり、博打好きだったり、家事ができないダメ主婦だったりする”できた人でない”場合のほうが、より可愛らしく、上品な朗らかさで輝いている事がわかったのです。
 原節子さんの女優としての魅力はまた別の機会に語るとして、やはり、日本映画の誇り、世界のスーパースターだと思います。
 そして、忘れてはならないのは、やはり”理想のおとうさん”を演じてる藤田進さんです。
 藤田さんこそはわれわれが求める理想に最も近い俳優と言えるでしょう。
 ただ、残念なことに、活躍した時期があまりにも昔なので、若い世代の人には魅力的だったころの藤田さんの映画を見る機会が少なすぎることです。
 当時の藤田さんは、まだ中年前期という感じで、「姿三四郎」を演じた青年期の甘さとふくよかさが少し残ってます。
 「地球防衛軍」(’57)「モスラ対ゴジラ」(’64)などの特撮ものでは(ボーガス注:防衛軍幹部という)役柄上、硬い印象だけど、本来は気さくで人懐っこい人物を得意とした人で、この「ノンちゃん」の直前も、若い女性と不倫の恋に落ちるメロドラマ「雪崩」や、姿三四郎の流れをくむ「銀座三四郎」、田崎潤さんと柔道対決する「東尋坊の鬼」などのアクションもの主演作があり、まだ人気スタアと言えた最後の時期ではなかったかと思えます。
 ノンちゃん以降から、藤田さんは脇役に廻ることが多くなり、主演作としては58年(昭和33年)の「江戸川乱歩の蜘蛛男」(なんと藤田さんが明智小五郎*35※註)が最後だったのではないかと思います(資料が少ないので推測ですが)。  
 この映画は池に落ちたノンちゃんの臨死体験をファンタジーとして描いてますが、まだ見たことない人は”ファンタジー映画”として過度の期待をしてはいけません。
 あくまで子供の目を通してみたホームドラマ、ファミリー映画として、テレビのなかった時代(映画は昭和30年だけど、原作は昭和22年)のほのぼのとした雰囲気を楽しんでください。これこそリアル「ALWAYS三丁目の夕日」です。
※註:その後の調査で、藤田さんは昭和24年の(ボーガス注:松竹映画)「一寸法師」で明智小五郎をすでに演じていた事が判明。

映画『ノンちゃん雲に乗る』~幼児期の記憶
 幼稚園児だったある日、父が「映画を観に行こう」といって、町のはずれにあった映画館に連れて行ってくれました。それまでに、公民館などで催された映画の上映会などで映画を観ることはあったんですが、映画館に入って映画を観たというのはこの時が初めてでした。
 その時観た映画のタイトルは、今でもはっきりと覚えています。『ノンちゃん雲に乗る』です。物語の詳細は覚えていませんが、なぜか女の子が池の上に張り出した木の枝の上で踊っていて、そこから落ちてしまう。そのあとは、雲の上でおじいさんとお話をしている、と云ったような大まかなことしか覚えていませんでした。
 幼時に観たこの映画がレンタルDVDにあったので、幼い時に父と観たことを思い出し、懐かしさから借りて来て観ました。
 『ノンちゃん雲に乗る』は、新東宝映画が1955年(昭和30年)に映画化し、公開しましたが、映画の解説からこの作品の原作は、1951年(昭和26年)に出版された石井桃子という人の児童文学作品だということを知りました。
 出演者は、ノンちゃんにはまだ幼少だった鰐淵晴子、お父さんが藤田進、お母さんは原節子、雲の上のおじいさんに徳川夢声などが出演しています。
 実は、ノンちゃんに扮したのは松島トモ子*36だとずっと思いこんできていたんですが、鰐淵晴子だったんですね。また、お母さん役は、戦後の小津安二郎作品に出演して「日本の聖女」と称された原節子が演じていたことにびっくりしました。
 8歳の女の子、田代信子(ノンちゃん)は、ある春の朝、お母さんとお兄ちゃんが自分に黙って東京へ出かけてしまったので、寂しくなって、気分を紛らそうと池のそばの木に登って池に映る空を覗いているうちに、誤って池に落ちてしまいます。
 暫くしてノンちゃんが気がつくと、そこは雲の上でした。雲の上にいた白いひげのおじいさんが、池に落ちたノンちゃんを熊手ですくって助けてくれたのです。ノンちゃんはおじいさんに、自分や家族のこと、いじめっ子のことなどを打ち明けます。
 この作品、観ていると幼時のことを思い出して、懐かしさがこみあげてくるんですが、今観ると、いかにも教育映画的な感じがし過ぎます。映画の冒頭には、「文部省選定、青少年映画委員会推薦」とクレジットされ、さらに「この映画を良い子の皆さんへお贈りします」と制作プロダクションからのメッセージが映し出されるあたりに、この映画の製作目的が窺われます。
 映画では、ところどころにノンちゃんの演じる歌やバイオリン、バレエなどを織り交ぜていて、子供向けのミュージカル映画のようなメルヘンな雰囲気が溢れています。空の上のファンタジックな世界は、今見ると稚拙な感じもしますが、当時の先端技術であったアニメーション合成技術を使って製作したのだそうです。
 観終って、原節子が優しいお母さんの役柄にぴったりですし、徳川夢声の雲の上のおじいさんも楽しく、とてもほほえましい映画でした。また、どぎつい場面や殺伐とした場面がなく、安心して観ることができる子供に向けて作られた良心的な作品だと思いました。
 父が、この映画を観に映画館に連れて行ってくれた意味が、今わかったような気がします。
 なお、父と一緒に映画館に行ったのは、この作品を観た時が最初で最後でした。


【参考:熊谷久虎

熊谷久虎
 36年本作『情熱の詩人啄木』で一躍日本映画界期待の新人監督として認められた。そして翌37年『蒼氓(そうぼう)』での成功は、早くも彼を一流監督の地位に昇りつめさせた。原作は第一回芥川賞受賞の石川達三*37の小説で、ブラジルへ移民する農民たちが神戸の移民収容所で乗船する一週間前の集団生活の日々を描いた群像劇で当時の日本の暗い社会事情を反映した骨太な作品である。いわゆる小市民映画とは一線を画する熊谷の重厚な作風は、それが当時の現代劇の主流ではなかったために貴重な存在だった。翌年東宝に移籍した熊谷は38年森鴎外原作の『阿部一族』を発表、封建制度下の殉死というテーマで彼の抵抗精神をモチーフにした重厚な作風は頂点を極めたかにみえた。しかし戦時体制下の思想統制は彼の作家的資質の方向性を大きく変え、直後に撮った『上海陸戦隊』(39年)や『指導物語』(41年)は極端に形骸化された国策映画であり、それまでの作品に見られた批判性や抵抗精神などは姿を消し、その変貌ぶりに多くの人は戸惑いを隠せなかった。その後熊谷は映画を離れて国粋主義思想研究団体「すめら塾」を結成し、リーダーとして政治活動に没頭していった。当時の国家の指導のもと多くの映画人が戦意昂揚・国策映画を製作し戦争協力を果たしたことは周知の事実だが、熊谷の場合その大真面目な極右的国粋主義思想への傾倒ぶりが人々の(特に映画評論家の)困惑をいっそう大きくした。後年研究者たちはその変貌の要因を「ドイツに渡りヒットラーにあってファシズムにかぶれた」ことや、「所属会社の東宝の保身第一の安全主義」や「強圧を加えた軍部の要請」といったことに見出したりしたが、いずれにせよ熊谷の評価はこの時期に大きく変化し、以後覆ることはなかった。戦後49年、義理の妹にあたる原節子も参加した芸研プロを創立、プロデューサーとしての活動を始める。そして53年には東宝に復帰して映画監督を再開した。58年にかけての5年間に5本の作品を発表するが、57年の『智恵子抄』が評価を受けた程度であった。戦後の熊谷の映画活動は、戦争中の彼の政治活動に対する贖罪とはならなかったようだ。しかしさわやかな好篇として人気を博した1954年の『ノンちゃん雲に乗る』と『柿の木のある家*38』は熊谷が第二次芸研プロでプロデュースした作品であることはあまり知られていない。

原節子伝説について
 戦時中は、義兄が「スメラ学塾」と呼ばれる国粋主義的な政治結社の中心人物として活動していたため、原節子も右翼的思想に傾倒していき、数多くの戦意高揚映画に出演した。敗戦後、彼女は日本軍に加担したこと、自分の出演映画が多くの若者を戦地へと送り出す起因となったことを後悔し、自責の念に苦しんだという。
 ちなみにこの「スメラ学塾」は、世界最古の文明を築いたシュメール人が東方へ移動し、古代日本に神武天皇をいただいて降臨したという「日本シュメール起源説」や、日本人とユダヤ人は祖先を同じくするシュメール人の末裔だという「日ユ同祖論」、またユダヤ人が世界征服を企んでいるとする「ユダヤ人謀略論」などを唱える団体である。敗戦後は、日本の無条件降伏を不服として、九州に天皇もしくは皇族のどなたかを招致し、独立国家「九州帝国」を建国、米軍と徹底抗戦するという荒唐無稽な構想を立てていた。
 原節子がこんな怪人物の義兄を信頼し、そのイデオロギーに感化(洗脳?)されていたことは非運どころか悲劇である。相当運命を狂わされたのではないだろうか。彼女がこの義兄のそばを一生離れなかったことが不思議でならない。

●原節子をめぐる三人の男①熊谷久虎篇 | 西村雄一郎のブログ
 熊谷久虎大分県中津市出身の彼は、京都の大将軍にあった日活撮影所に入社。庶民に根差したリアリズムの現代劇を監督していたが、会田光代という女優と結婚する。
 1934年、日活が多摩川に撮影所を建設したのをきっかけに、夫婦は東京に移って来る。保土ヶ谷の光代の実家に立ち寄って、光代の妹・昌江と連れ立って、江の島見物に出かけた。そこで久虎は、妹を誘ったのだ。「どう、昌江ちゃん、女優にならない?」
 昌江は翌年、「ためらふ勿れ若人よ」(35年)でデビューする。その役名が〝節子〟だった。撮影所長は彼女に芸名を与える時、ふと浮かんだ〝原〟をその上に付けた。それが、原節子が誕生した瞬間だったのだ。当時、彼女は15歳。
 久虎はその後も、ずっと原節子の後見人を務めている。日独合作の映画「新しき土」(37年)が完成した時、彼女に付き添って、世界一周旅行にも出かけた。原節子はベルリンで、振り袖姿で挨拶し、やんやの喝采を浴びた。
 この頃から、国策映画がさかんに作られる。久虎も、「上海陸戦隊」(39年)、「指導物語」(41年)を監督。原節子も、前者では日本兵に抵抗する中国娘、後者では、頑固な老機関士(丸山定夫*39)の賢い娘を演じて、協力している。
 久虎は以後、映画をぱったりと撮らなくなった。活動を国粋主義の思想団体「スメラ学塾」に移し、采配を振るった。活動資金は陸軍省と情報局から出ているといわれた。
 満州と韓国の国境警察隊の活躍を描く「望楼の決死隊」(43年)の時、原節子は監督の今井正に、久虎から託された手紙を渡した。そこには、「日本国民の目を北方にそらそうとするのはユダヤ人の陰謀だ。そんな映画は即刻中止されたし」と書いてあった。「当時、節ちゃんもユダヤ人謀略説を唱えていたのには驚いた」と今井は言う。原節子は久虎に対しては、異常なほど従順だった。それがなぜか?は謎である。
 戦後、久虎は「芸研プロ」を設立し、原節子を主役にして、「智恵子抄」(57年)他、何本か製作した。しかし観客の心をつかむ作品とはならなかった。小津安二郎監督の死後、原節子はこの姉夫婦の鎌倉の家に移り住み、同棲生活を始める。近所付き合いもせず、その家から出ようともしなかった。
 1986年、一大の英傑・熊谷久虎は82歳で死去した。彼は戦後、監督の輝きはついに見られなかった。しかし原節子を映画界に引き込み、彼女が慕った義兄として、日本映画史にその名を刻むことだろう。

原節子と熊谷久虎 | 大衆文化評論家 指田文夫公式サイト | 「さすらい日乗」
 2008年に出た白坂依志夫*40の「シナリオ別冊」の『白坂依志夫の世界』は、1960年代以降の日本映画界が、セックスとクスリ(麻薬ではなく、ハイミナール等の睡眠薬である)が蔓延していたことを暴露したとんでもない本だが、この176ページにさらにとんでもないことが書かれている。東宝のプロデューサーだった藤本真澄*41について書かれたもので、彼の告白は、
原節子に、実は惚れてたンだよ、昔だけどね。できたら結婚したいなんて若気の至で思ったンだが、その時、ホラ、熊谷久虎
知ってるだろう、姉さんの旦那さ。あの右翼野郎と出来ているってきいてね、それで、あきらめたのさ」
 まるで、羽仁進が、左幸子*42と結婚していながら、彼女が撮影で日本を離れた隙*43に、左の妹・額村喜美子とできて、結局再婚してしまった事件のようではないか。
 藤本真澄原節子に惚れていたのはいつのことかよくわからないが、互いの年齢から考えれば、戦時中くらいのことだろう。この白坂への告白は、藤本の1979年の死の前年のことで、すでにガンで余命はいくばくもないことを本人が知っていたときなので、嘘ではないだろう。
 あの天女のような原節子の美しい微笑の影には、実の姉の夫との不倫という深い苦悩があったのである。そう考えると、原節子は大根役者にように言われることもあったが、随分と演技をしていた役者だったということになる。


【参考:スメラ学塾

◆シュメール(ウィキペディア参照)
 日本で古代オリエント研究の先鞭をつけ、1916年(大正5年)にバビロン学会を起こした原田敬吾は、ハムラビ法典を研究するなかでバビロン民族の容貌や宗教、習俗、言語などに日本民族との類似点を多く見出し、過去にバビロン民族の一部が日本に移住してきたという仮説を提唱した。
 1927年(昭和2年)に大山祇神社宮司三島敦雄が原田の論を継承発展させ、日本人シュメール起源説を提唱した。
 第二次世界大戦中には、「高天原バビロニアにあった」、天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」といった俗説が横行した。
 1940年、小島威彦*44仲小路彰と陸軍軍人高嶋辰彦*45の発案で「スメラ学塾」が開講され、その思想に感化された川添紫郎(小島威彦のいとこ、のちにイタリア料理店「キャンティ」オーナー)や建築家の坂倉準三*46らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成した。塾頭には末次信正*47海軍大将が就いた。原節子の義兄の映画監督熊谷久虎スメラ学塾に参加し、学塾内に劇団太陽座を結成する。
 仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた。しかし、坂倉の義父である西村伊作*48は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している。

古本夜話121 高楠順次郎『知識民族としてのスメル族』、スメラ学塾、仲小路彰『肇国』
 太平洋戦争と大東亜共栄圏の進行下において、多くの人々がその強力な磁場の中へと引き寄せられ、奇怪な言説や歴史を語り出すようになる。それは本連載で繰り返し言及してきた『大正新修大蔵経』や『世界聖典全集』の企画、編集、翻訳の中心人物である高楠順次郎*49も例外ではなかった。
 柳田国男の戦時下の「炭焼日記」(『定本柳田国男集』別巻四所収、筑摩書房)の昭和二十年一月七日のところに、「増田正雄君見まひに来る。『知識民族としてのスメル族』といふ高楠博士の本をくれる」と記されている。
 増田は宮沢正典の『ユダヤ人論考*50』(新泉社)で指摘されているように、反ユダヤ陣営の中枢である国際政経学会の代表者で、『猶太研究』を刊行していたが、次第に日ユ同祖論へと傾斜していく。宮沢が引用している『猶太研究』における増田の講演から考えると、その転回はスメル民族が日本神族の一分派で、ユダヤ教はスメルの祭式を偽造しているので、ユダヤもまた日本の末流だという奇怪な論理によっているのだろう。だがそのバックボーンが高楠順次郎であるとの言及はなく、柳田の日記によって、反ユダヤプロパガンディストにして、日ユ同祖論に移行していく増田と高楠の関係が明らかにされたことになる。
(中略)
 このスメル民族なる言葉を以前にも見た記憶があった。それは文化学院のことを調べていた時、創立者西村伊作の自伝『我に益あり』(紀元社、昭和三十五年)の中に出てきたことを思い出し、再読してみた。するとやはり次のような一節があった。

 私の(ボーガス注:娘)ユリの夫坂倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という国体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間の発生した根本の人種であるといった。そしてそのスメル族がスメル地方に発生してから間もなく日本に来て住んだ。そして日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が発展した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路(なかしょうじ)という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。

 そこで仲小路について調べてみると、彼は桂太郎*51内閣の農商務大臣だった仲小路簾*52の息子で、東京帝国大学で哲学を専攻した仲小路彰であり、西村の娘婿の建築家板倉準三などの「パリの日本人たち」に連なる人脈に位置し、スメラ学塾なる研究機関を設け、内外の要人を招聘し、様々な講義を展開していたという。高楠もその一人だったと思われる。
〈付記〉
 その後、仲小路に関しては、晩年の弟子である野島芳明*53の『昭和の天才 仲小路彰*54』(展転社)が出され、戦後における彼の生活が明らかにされた。

古本夜話122 小島威彦『百年目にあけた玉手箱』、戦争文化研究所、世界創造
 小島は九十歳を超えた一九九五年に『百年目にあけた玉手箱』という全七巻、二百字詰一万枚に及ぶ、明治、大正、昭和にわたる自伝を刊行している。
 発売元の創樹社は当時からの危機、何回かの買収を経て、〇二年に自己破産したために、在庫も散逸してしまったと考えられる。それらもあって、『百年目にあけた玉手箱』全七巻は古書市場でも揃いが容易に見つけられない状況にある。これは市販本というよりも私家版的な要因も強く作用しているのだろう。その評価はひとまずおくにしても、これは特異な自伝と見なしうるので、とりわけ興味深い戦前分の第一巻から第四巻だけでも、人名索引つきの文庫化を期待したい。小島は(ボーガス注:筑摩書房創設者の一人である評論家)唐木順三*55と親しかったことからすれば、ちくま文庫がふさわしいと思われる。
 小島は元農商務大臣仲小路簾の次男彰を紹介される。彼は東京帝大の哲学の先輩であり、春陽堂の編集者にして、岩波書店の『哲学辞典』の編集委員だった。仲小路は三つ年長にすぎないが、頭は半白で、カントの肖像画にも似て、小島にしてみれば、「まるで百科全書派のフランス貴族と話している」ようだった。
「彼の文学や哲学や歴史の世界の広さは尋常の範疇を越えている。僕は読書の浩瀚さなるものから醸し出されてくる不思議な世界を目のあたりにして、彼が世界をかけめぐる連想の輪舞に眩惑された」。
 これが前回言及したスメラ学塾をともに設立するに至る仲小路と小島の出会いだった。

古本夜話133 仲小路彰のささやかな肖像
 小島威彦は『百年目にあけた玉手箱』において、戦後の仲小路についてほとんど言及していない。それはおそらくスメラ学塾に集った人々も同様であり、仲小路そのものに関するタブー意識がつきまとっていたからだろう。
 それは『一九三〇年代のパリと私』を著わした丸山熊雄*56も同様で、同書に記された仲小路に関する戦後の証言は貴重であるが、それは実名ではなく、イニシャルで記されている。丸山の同書は彼が亡くなった後、残された口述テープをもとに、夫人によって私家版として鎌倉書房から刊行され、それが昭和六十一年に公刊されたものである。夫人は丸山について、「留学時代のこと、戦争中のことは、自分でもあまり語らず、ごく少数の方以外には、長年、謎のように言われておりました」と述べている。この証言から考えると、ここで語られている一九三〇年代の「パリの日本人たち」の物語は、そのメンバーたちの誰もがほとんど語ってこなかったことを意味している。そしてまた丸山の回想の出現があってこそ、小島の『百年目にあけた玉手箱』の上梓も実現したのではないだろうか。
 しかも同書において、丸山は「パリの日本人たち」には愛着をこめ、その生活を描いているが、帰国後にスメラ学塾に関係し、『戦争文学論*57』を著わし、仲小路の大東亜戦争ビジョンへと引き寄せられていった経緯と事情にはまったくふれられていないし、それらへの言及は丸山の晩年にあっても、タブーのままだったと思われる。ようやく同書において、「留学時代のこと」は語られたが、「戦争中のこと」はほぼ「謎」のままになっている。しかし丸山は少しだけ「戦争中のこと」にふれ、「黒幕、N氏のこと」という一項を残している。これは明らかに仲小路のことで、彼が小島の背後にいた人物で、自分は小島たちと別れてしまった後でも、交渉があり、ヴォルテール研究者の自分が不可解で複雑なヴォルテールの性格をそれなりにつかむことができたのはN氏の存在によることが大きいとも述べている。

*1:石坂洋次郎青い山脈』の映画化

*2:広津和郎『父と娘』の映画化

*3:ドストエフスキー『白痴』の映画化

*4:林芙美子『めし』の映画化

*5:川端康成『山の音』の映画化

*6:1903~1963年(ウィキペディア小津安二郎』参照)

*7:1909~1938年。5年間の監督生活で発表した監督作品は、ほとんどのフィルム原版が紛失、もしくは戦災で焼失したため、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』(昭和10年)、『河内山宗俊』(昭和11年)、『人情紙風船』(昭和12年)の3作品のみである。ただ、これらも残っているものは戦後の公開版であるためオリジナルの尺であるかどうかは定かではなく、『丹下左膳余話 百萬両の壺』はGHQの検閲によってチャンバラ場面が削除されたと考えられている(ウィキペディア山中貞雄』参照)

*8:1902~1965年(ウィキペディア滝沢英輔』参照)

*9:1902~1974年(ウィキペディア山本嘉次郎』参照)

*10:1910~1998年。1951年(昭和26年)、『羅生門』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。1954年(昭和29年)、『七人の侍』でヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞。1975年(昭和50年)、『デルス・ウザーラ』でアカデミー外国語映画賞を受賞。1985年(昭和60年)11月、文化勲章を受章。1990年(平成2年)、アカデミー名誉賞を受賞。1998年(平成10年)、国民栄誉賞を受賞。著書『蝦蟇の油:自伝のようなもの』(岩波現代文庫)(ウィキペディア黒澤明』参照)。

*11:1911~2000年。1947年、『安城家の舞踏会』でキネマ旬報ベストワンを受賞。1951年に『偽れる盛装』で毎日映画コンクール監督賞を受賞。著書『京の路地裏』(2006年、岩波現代文庫)(ウィキペディア吉村公三郎』参照)。

*12:1912~1998年。1954年(昭和29年)に『二十四の瞳』でブルーリボン賞脚本賞毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞などを受賞(ウィキペディア木下惠介』参照)。

*13:1912~1991年。1950年(昭和25年)、『また逢う日まで』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1956年(昭和31年)、八海事件裁判で弁護を担当した正木ひろしの手記の映画化『真昼の暗黒』でキネマ旬報ベスト・テン第1位、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。1957年(昭和32年)、『純愛物語』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。1963年(昭和38年)、『武士道残酷物語』でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞(ウィキペディア今井正』参照)。

*14:1905~1969年。代表作として『めし』(1951年)、『浮雲』(1955年)など(ウィキペディア成瀬巳喜男』参照)。

*15:1916~2012年。監督作品として『女殺し油地獄』(1957年)、『裸の大将』(1958年)、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年)など。著書『評伝 黒澤明』(ちくま文庫)(ウィキペディア堀川弘通』参照)。

*16:1905~1980年。1958年に『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞(ウィキペディア稲垣浩』参照)。

*17:1900~1946年。映画監督、脚本家。俳優、映画監督の伊丹十三(1933~1997年)の父。俳優の池内万作(1972年生まれ、伊丹十三の息子)の祖父。

*18:この映画は監督、脚本が熊谷と言うことと、主演が原と言うこと以外はウィキペディアを見てもよく分かりません。

*19:1905~1988年。以前、熊谷が監督を務めた『蒼茫』(1937年、石川達三原作(第1回芥川賞受賞作))の脚本を担当(ウィキペディア「藤田進」参照)。

*20:1909年生まれ。1953年、熊谷久虎と芸研プロダクションを設立し、専務となる。1956年には社長に就任し、記録映画などの製作にあたり、1977年に辞任するまで活躍した。没年不詳(ウィキペディア「中田博二」参照)。

*21:1907~2008年。1934年6月から1936年6月まで新潮社に勤務し、吉野源三郎山本有三らと「日本少国民文庫」の編集にあたった。1940年12月、吉野の紹介により、岩波書店から『クマのプーさん』を翻訳出版。1951年に光文社から刊行した『ノンちゃん雲に乗る』が第1回芸術選奨文部大臣賞を受け、ベストセラーとなり、鰐淵晴子主演で映画化される。長年の児童文学界における業績を高く評価され、1953年、菊池寛賞受賞。1993年、日本芸術院賞受賞(子どもの本の世界における長年の貢献と業績に対して)。1995年、自伝的長篇小説『幻の朱い実』上下(1994年、岩波書店)で読売文学賞受賞。著書『新編・子どもの図書館』、『児童文学の旅』(以上、岩波現代文庫)、『新しいおとな』、『家と庭と犬とねこ』、『プーと私』、『みがけば光る』(以上、河出文庫)など。訳書『クマのプーさん』、『プー横丁にたった家』、『トム・ソーヤーの冒険』(以上、岩波少年文庫)など(ウィキペディア石井桃子」参照)

*22:1912~1990年。以前、熊谷が監督を務めた『指導物語』(1941年)に出演している(ウィキペディア「藤田進」参照)。

*23:1894~1971年。ラジオやテレビの司会者、俳優、作家として活躍。著書『話術』(新潮文庫)、『夢声の動物記』(ちくま文庫)、『夢声戦中日記』(中公文庫プレミアム)など(ウィキペディア徳川夢声」参照)。

*24:1910~1997年。東宝社長、会長を歴任。プロデューサーを務めた映画としては『ゴジラ』(1954年、本多猪四郎監督)、『無法松の一生』 (1958年、稲垣浩監督)、『独立愚連隊』(1959年、岡本喜八監督)、『用心棒』(1961年、黒澤明監督)、『モスラ』(1961年、本多猪四郎監督)、『椿三十郎』(1962年、黒澤明監督)、『赤ひげ』(1965年、黒澤明監督)、『日本のいちばん長い日』(1967年、岡本喜八監督)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹監督)、『日本沈没』(1973年、森谷司郎監督)、『八甲田山』(1977年、森谷司郎監督)、『影武者』(1980年、黒澤明監督)など(ウィキペディア田中友幸」参照)

*25:1910~2000年。1950年には小津安二郎監督作品の『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞(ウィキペディア山村聡」参照)。

*26:現在は岩波文庫、角川文庫

*27:現在は小学館文庫

*28:日本では古典ミステリ『赤い館の秘密』 (創元推理文庫)の著者としても知られる。

*29:現在は岩波少年文庫、角川文庫

*30:現在は岩波少年文庫

*31:現在は岩波少年文庫

*32:著書『米百俵』、『路傍の石』(以上、新潮文庫)など

*33:1928~2007年。京都大学名誉教授。著書『カウンセリングの実際』、『心理療法序説』、『生と死の接点』、『ユング心理学入門』(以上、2009年、岩波現代文庫)、『心理療法入門』、『ユング心理学と仏教』(以上、2010年、岩波現代文庫)、『日本人の心を解く』(2013年、岩波現代全書)、『子どもと悪』、『子どもの本を読む』、『ファンタジーを読む』、『物語とふしぎ』(以上、2013年、岩波現代文庫)、『大人になることのむずかしさ』(2014年、岩波現代文庫)、『源氏物語と日本人』、『神話と日本人の心』、『神話の心理学』、『物語を生きる』(以上、2016年、岩波現代文庫)、『定本・昔話と日本人の心』、『昔話と現代』(以上、2017年、岩波現代文庫)など(ウィキペディア河合隼雄」参照)

*34:1936年生まれ。明治学院大学名誉教授。著書『宮沢賢治の彼方へ』(1993年、ちくま学芸文庫)など(ウィキペディア天沢退二郎」参照)

*35:大映映画。蜘蛛男役は岡譲司(1902~1970年)。なお、岡は大映映画『氷柱の美女』(1950年)では明智小五郎を演じている(ウィキペディア「蜘蛛男」「藤田進」「岡譲司」参照)

*36:1945年生まれ。代表作として東宝映画『サザエさん』(1956年)、『続・サザエさん』、『サザエさんの青春』、『サザエさんの婚約旅行』(以上、1957年)の「磯野ワカメ」役、NHKスヌーピーチャーリー・ブラウン』(1976年)の吹き替え(サリー・ブラウン役)など(ウィキペディア松島トモ子」参照)。

*37:著書『風にそよぐ葦(上)(下)』、『金環蝕』、『人間の壁(上)(中)(下)』(以上、岩波現代文庫)、『青春の蹉跌』(新潮文庫)、『生きている兵隊』(中公文庫)など

*38:壺井栄原作

*39:1901~1945年。広島に投下された原爆により壊滅した移動演劇「桜隊」の隊長を務め、被爆死している(ウィキペディア丸山定夫」参照)。

*40:1932~2005年、脚本家。脚本作品として映画『巨人と玩具』(1958年、増村保造監督)、『完全な遊戯』(1958年、舛田利雄監督)、『好色一代男』(1961年、増村保造監督)、『けものみち』 (1965年、須川栄三監督)、『盲獣』(1969年、増村保造監督)、『動脈列島』(1979年、増村保造監督)、『曽根崎心中』(1978年、増村保造監督)など(ウィキペディア白坂依志夫」参照)

*41:1910~1979年。元東宝副社長。プロデュースした映画として『青い山脈』(1949年、今井正監督)、『めし』(1951年、成瀬巳喜男監督)、社長シリーズ(1956年~1970年)、『隠し砦の三悪人』(1958年、黒澤明監督)、『小早川家の秋』(1961年、小津安二郎監督)、『日本のいちばん長い日』(1967年、岡本喜八監督)、『日本沈没』(1973年、森谷司郎監督)など(ウィキペディア藤本真澄」参照)

*42:1930~2001年。1963年、『にっぽん昆虫記』(今村昌平監督)で日本人で初めてベルリン国際映画祭女優賞を受賞(ウィキペディア左幸子』参照)。

*43:ウィキペディア「羽仁進」によれば話は逆で「羽仁が海外に撮影旅行で日本を離れた際」に羽仁に同行した左の妹・額村喜美子とできたそうですが。

*44:1903~1996年。戦後、明星大学名誉教授(ウィキペディア「小島威彦」参照)

*45:1897~1978年。第16軍(ジャワ島)参謀、第3軍(満州)参謀長、第12方面軍(東京)参謀長など歴任(ウィキペディア「高嶋辰彦」参照)

*46:1901~1969年。1937年(昭和12年)のパリ万国博覧会では、日本館の設計を手がけた(ウィキペディア「坂倉準三」参照)

*47:1880~1944年。軍令部次長、連合艦隊司令長官、第一次近衛内閣内務大臣など歴任(ウィキペディア「末次信正」参照)

*48:1884~1963年。文化学院創設者(ウィキペディア西村伊作」参照)

*49:1866~1945年。仏教学者、インド学者。東京外国語学校東京外国語大学の前身)校長、東洋大学学長など歴任。著書『釈尊の生涯』(ちくま学芸文庫)(ウィキペディア高楠順次郎」参照)

*50:1973年刊行

*51:1848~1913年。台湾総督、第3次伊藤、第1次大隈、第2次山県、第4次伊藤内閣陸軍大臣、首相、内大臣侍従長兼務)など歴任(ウィキペディア桂太郎」参照)

*52:1866~1924年。東京控訴院検事、行政裁判所評定官、内務省土木局長、警保局長、逓信次官、第3次桂、寺内内閣農商務大臣など歴任(ウィキペディア「仲小路簾」参照)

*53:著書『日本文化のかたち』(2002年、展転社)、『大東亜戦争後の世界:仲小路彰の「地球論」思想』(2007年、展転社)など

*54:2006年刊行

*55:1904~1980年。著書『「科学者の社会的責任」についての覚え書』、『日本人の心の歴史(上)(下)』、『無常』(以上、ちくま学芸文庫)、『良寛』(ちくま文庫)など(ウィキペディア唐木順三」参照)

*56:1907~1984年。学習院大学名誉教授(フランス文学)(ウィキペディア「丸山熊雄」参照)。

*57:1940年刊行

常岡浩介に突っ込む(2020年2月10日分)

常岡浩介 がリツイート
◆石田昌隆
 国連開発計画(UNDP)の局長、岡井朝子は、日本の外交の酷さを象徴していますね。完全にアサドべったりです。

 岡井氏を否定的に評価するにせよ、また岡井氏が外務省出身(国連に出向)であるにせよ、今の彼女は「国連事務局が人事権を持つ国連職員」なのだから「日本外交の酷さ」つう話ではないと思いますがね。
 まあ、安倍内閣以降の外交は「トランプべったり」「戦前美化による中国、韓国との関係悪化」と言う意味で最悪だと思いますが。

参考

◆岡井朝子(ウィキペディア参照)
 1966年生まれ。外務官僚としてパキスタン大使館一等書記官、オーストラリア大使館一等書記官、外務省国際協力局人道支援室長、中近東アフリカ局アフリカ第二課長、スリランカ大使館次席公使、バンクーバー総領事などを歴任。現在、国際連合事務次長補兼UNDP(国際連合開発計画)総裁補兼UNDP危機対応局長。

今日の産経ニュースほか(2020年2月10日分)

自民・森山国対委員長、秋元被告の対応は慎重に - 産経ニュース
 「推定無罪」て政治家には「一般人とは違う高い倫理観」が求められるのであり、辞職勧告決議案を出すことには別に問題はないでしょう。


森法相、政府の介入否定 黒川検事長の定年延長 - 産経ニュース
 まあ酷い虚言ですね。普通に考えて「定年を越える人事案」なんてもんを事務方が出すわけもない。
 いや出したところで「事務方の案だから、首相にも法相にも責任はない」なんてそんな馬鹿な話はない。
 だったらどんな案でも事務方の案を認めるのか、そうじゃないでしょ、そもそも、それだったら大臣が決裁する必要ないじゃない、つう話です。
 ダメ出ししなかった以上責任が生じるわけでどこまで嘘つきでクズなのか、つう話です。
 つうか、こんなことを言うなら「検事長は大変、有能で余人に代えがたいと思ったので私の一存で定年延長しました。不正な考えなどありません。違法だと思っていません(法相)」といった方がまだましでしょう。


菅氏、4月以降に皇位継承策検討 旧宮家男子に復帰の意向確認せず - 産経ニュース

 旧宮家男子に皇族復帰の意向を確認するかどうかについては「今までやっていないし、そこは考えていない」と述べた。

 まあ、普通そんなことはしないでしょうね。「女帝を認めればいい」で終わる話ですし。
 かつ、まともな人間なら聞かれたところで「是非戻りたい」なんて「お前そんなに皇族になりたいのかよ?。皆からそんなに平伏されたいの?」と呆れられるようなことは言えないでしょうね。まあ、「例の竹田」だと「喜んで!」と言いかねませんが。


菅氏「個別に話をうかがっている」皇位継承で議論着手 - 産経ニュース
 「今年春の習主席訪日(予定)」によって「『反中国の同盟者』と信じていた安倍に裏切られた産経らウヨ」にとってこの菅の態度は「女帝導入に踏み切るのではないか」「また裏切るのではないか」という恐怖感を感じずには居られないでしょう。
 何せ「有識者に意見を聞いている」といいながら、「誰に何を聞いていつ判断を下すのか」については「(雑音のない)静かな環境で意見を聞きたい」として説明しない有様です。
 過去には

二階俊博氏、女性天皇を容認 自民幹部初「国民に違和感ない」 - 産経ニュース
 自民党二階俊博幹事長は25日のBS朝日番組の収録で「女性尊重の時代に、天皇陛下だけ『そうならない』というのは時代遅れだ。そうと決まれば国民には違和感はないと思う」と述べ、女性天皇を容認する考えを示した。
 二階氏は収録後、記者団に対し「トップが女性の国もいくつかある。何の問題も生じていない」と指摘。その上で「女性がこれだけ各界で活躍しているところで、皇室、天皇だけが女性が適当でないというのは通らないと思う」と述べた。

波紋広げる自民幹部の女系天皇「容認」発言 重鎮「不勉強だ」(1/2ページ) - 産経ニュース
 「男女平等、民主主義の社会を念頭に入れて問題を考えればおのずから結論は出るだろう」
 自民党二階俊博幹事長は26日の記者会見で、女性天皇女系天皇への見解を問われこう述べた。二階氏は平成28年にも「女性尊重の時代に天皇陛下だけ『そうならない』というのは時代遅れだ」との考えを示している。
 甘利明税調会長も24日のテレビ番組で「男系を中心に順位を付け、最終的な選択としては女系も容認すべきだ」と発言した。

ですからね。
 甘利は「第一次安倍内閣経産相、第二次、第三次安倍内閣経済財政担当相、自民党政調会長、選対委員長(第二次安倍総裁時代)」を、二階氏も「自民党総務会長、幹事長(第二次安倍総裁時代)」を歴任した安倍政権幹部です。彼らのこうした発言に安倍がダメ出ししたなんて話は少なくとも表に出てない。もちろん彼らが安倍を無視してこういうことを言うとも思えない。
 野党各党もほとんどが女帝容認論だし、世論調査でも容認論が多数派です。「女帝は絶対駄目」なんてウヨしかいない。
 こうなると「天皇制維持を確実にしたというレガシーをつくりたい」「国民の人気取りしたい」で安倍が「女帝導入に動くのでは?」なんてことは誰も思いつくことです(まあ、それなら「安倍は小泉政権時代の女帝導入の動きに反対するなよ!」て話ですが。安倍らウヨが反対しなければ小泉政権でとっくに導入されていたでしょう)。
 ここで「女帝は伝統に反し、駄目だから元皇族を復帰させます」なんて言えば野党から「自民は女性差別政党だ*1」「世論は女帝容認だ」などと叩かれる「いいネタ」にもなる。そこで「叩きたければ叩け。何を言われようとも私は女帝否定の伝統を守る。元皇族復帰、この道しかない」と居直れるタマでは安倍はないでしょう。安倍は正直、そこまで「筋金の入った極右」ではないでしょうね。だから「財界の要望にそって」習主席の訪日も受け入れる。


小沢一郎氏「このままなら野党惨敗」 合流協議破談で - 産経ニュース
 「何だかなあ」ですね。勝ち負けがどうでもいいとは言いませんが、まず第一に政治の建前は「政策が一致できるか」でしょう。
 そうでなければ合流しても野合でしかない。
 第二に「民進党が分裂して出来た国民民主と立民」が合同したところで支持が集まるのか。「また分裂するんじゃないか」という疑念を感じる人間は魅力を感じないでしょう。
 そもそもこんなことを言う小沢氏自身が「民主党内反主流派」に追い込まれたことに不満を感じて、子分と一緒に民主党を離脱し「国民の生活が第一日本未来の党→生活の党→自由党(そして自由党を解散して国民民主党に参加)」をつくった人間であり、「過去に民主党を離れた人間が今更何を言っているのか?」と言う話です。
 結局、自由党がぱっとしないので解散して国民民主党に入ったがたいした役職に就けないので「国民民主と立民の統合」をてこに役職について復権したいというだけの話でしょう。小沢氏の言動には心底呆れます。


リベラル21 京都市長選終わる広原盛明*2

 (ボーガス注:マスコミ調査に寄れば)相乗り候補の現職に対して自民支持層の7割、公明支持層の8割強が投票しているのに対して、立憲支持層は4分の1、国民支持層は3分の1しか投票していない。社民支持層に至ってはゼロなのだ。

 「京都市長選の最大の敗者」、それは落選した福山和人候補や村山祥栄候補でも「福山を支持した共産党やれいわ新選組」「村山を支持した京都党」でもなく「『京都市政与党になりたい』という目先の利益&『しかし共産党とは共闘したくない』という反共主義から自民と相乗りし、支持者から離反された立民、国民民主、社民党だ」「ある意味、共産党とれいわは『自民と相乗りする連中よりは信じられる』と株を上げた勝者かもしれない」というのが広原氏の主張です。
 マスコミ世論調査を信じれば、「絶対に勝てた」とまではいいませんが、福山氏を「野党共闘候補」で擁立すれば充分勝つ可能性はありました。少なくとも当選できずとも大善戦し、野党共闘の追い風になったでしょう(その点を広原氏は残念がっていますが俺も同感です)。
 しかし、立民、国民民主、社民は「自民に相乗り」した。あげく、支持層から見すてられてほとんどの支持層は「棄権」または「福山or村山への投票」。
 当然ながら立民、国民民主、社民の票は自公にとってそれほど感謝するほどのもんでもないでしょう。むしろ門川批判票を分散させた村山に感謝しているかもしれない。村山が立たなければ門川批判票のかなりの部分が福山氏に行ったでしょうから。

 今回の市長選では(でも)福山哲郎*3立憲幹事長や前原誠司*4国民府連代表は、(ボーガス注:現職・門川を支援する)「オール京都」の1員として奮戦した。要職にありながらしかも国会開催中にもかかわらずトンボ返りで応援演説に駆け付け、陣営の引き締めを図った。
 だが、福山・前原両氏が先頭に立って現職支持の旗を振ったにもかかわらず、立憲・国民支持層の大半はソッポ向いて対立2候補*5に投票した。

 「京都市長選」で「現職相乗り」に加担した福山が「立民幹事長」である限り、俺は立民などかけらも評価しません。その点は広原氏も同じようです。しかも広原氏の見立てによれば「国民民主、立民支持層」のうち「右派支持層の大半は京都党の村山」に「左派支持層の大半は福山氏」に投票したというのだから全く無様です。

 京都市長選は、国政与野党5党相乗りの現職・門川大作氏が21万票640票(得票率45.1%)を得て4選を果たした。しかし、新人で弁護士の福山和人氏(共産・れいわ推薦)は16万1618票(同34.6%)、新人で元市議(ボーガス注:で元京都党代表)の村山祥栄氏9万4859票(同20.3%)を獲得し、新人票を合わせると54.9%となり現職票45.1%を約10ポイント上回った。
 現職への批判票が新顔2人に分散したことが、門川氏の最大の勝因だ。
 今回の市長選における現職候補得票数21万640票は、有効投票数46万7117票の45%に過ぎず、対立2候補の得票数25万6477票を4万5837票も下回っている。「現職支持票」よりも「現職批判票」の方が多いのであり、しかも「現職批判票」が過半数を占めているのである。
 「現職への批判票が新顔2人に分散したことが、門川氏の最大の勝因」だとする、朝日の指摘は的を射ている。また、これまでの京都市長選が「非共産対共産」といった党派的文脈で語られることが多かったのに対して、今回の市長選の対決軸は「現職支持対現職批判」だとする分析視角も優れている。このような分析視角でなければ、なぜ立憲支持層の4分の1、国民支持層の3分の1しか現職候補に投票しなかったのか、その理由を解明できないからだ。要するに、福山立憲幹事長や前原国民府連代表がいくら「非共産対共産」の文脈で反共ムードを煽ろうとしても、支持者たちは「現職支持対現職批判」の視点すなわち「現体制=オール京都=国政与野党5党相乗り批判」の立場から投票したのである。

 とはいえ、「京都党の村山」と共産党が一本化なんかできる話じゃないですからね。陰謀論になってしまいますが、うがった見方をすれば、村山の立候補自体が「門川批判票を分散するために門川陣営が仕組んだ謀略」の可能性すらあるでしょう。繰り返しますが「福山氏を野党共闘候補にしなかった立民、国民民主、社民」には改めて怒りを禁じ得ません。

左京区は(中略)得票数は、福山2万2558票(37.4%)でトップ、門川1万9159表(31.8%)で第2位、村山1万8091票(30.0%)で第3位となった。
東山区ではどうか。(中略)門川5093票(41.1%)に対して福山4493票(36.2%)と肉薄した。福山・村山票を合わせると7128票(57.5%)となり、門川票5093票(41.1%)を大きく上回った。
・前原氏の選挙区は、左京区東山区山科区の3区にわたるが、その大票田の左京区で現職票が(ボーガス注:対立二候補の合計獲得票より)沈んだ影響は大きい。
・前原衆院議員が権力の座から滑り落ちる日はそう遠くない

 前原批判派の俺としてはぜひそうあってほしいもんですね。


【安倍政権考】トランプ、プーチン両氏との面会…北村安保局長の力の源泉は(1/4ページ) - 産経ニュース
 もちろん北村氏の「力の源泉」は「日本が経済大国であること」ですね。
 そもそも「前任者である・谷内氏(元外務次官)」に比べて彼が国際的に評価されてるという事実はないでしょう。
 もちろん「無能な」安倍の力なんてこともない(産経は「安倍の力だ」と強弁しますが)。
 そもそも、「トランプやプーチンが会ってくれたから何なのか」て話です。何か外交的成果がなければ「会っただけ」では意味がありません。
 その点では「AIIB、一帯一路(習主席)」「米朝首脳会談の仲介(文大統領)」「シリア内戦に介入し親ロシア・アサド政権の崩壊を阻止(プーチン大統領)」などの方が「成果を上げている」のだから安倍よりよほど有能です。

*1:まあ実際そうでしょうが。

*2:京都府立大学名誉教授、元京都府立大学学長。個人ブログ広原盛明のつれづれ日記。著書『震災・神戸都市計画の検証』(1996年、自治体研究社)、『開発主義神戸の思想と経営』(編著、2001年、日本経済評論社)、『日本型コミュニティ政策:東京・横浜・武蔵野の経験』(2011年、晃洋書房)など

*3:鳩山内閣外務副大臣菅内閣官房副長官民主党政調会長(海江田代表時代)などを経て立憲民主党幹事長

*4:鳩山内閣国交相菅内閣外相、野田内閣国家戦略担当相、民主党政調会長(野田代表時代)、民進党代表などを経て国民民主党京都府連代表

*5:共産、れいわが支援した福山氏の他に「京都党(京都版大阪維新の会、京都版都民ファーストの会)」から村山祥栄が立候補していた。

「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年2/10日分:高世仁の巻)(副題:有本嘉代子が死去)

有本恵子さん拉致の全貌 3 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 コメントが特に思いつかなかったので拙記事ではコメントしませんでしたが高世記事有本恵子さん拉致の全貌 2 - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。
 なお、関連記事である有本恵子さん拉致の全貌 - 高世仁の「諸悪莫作」日記については「珍右翼が巣くう会」に突っ込む、ほか(2020年2/8日分:三浦小太郎&高世仁の巻、ほか)(副題:有本嘉代子が死去) - bogus-simotukareのブログで、有本恵子さんの母、嘉代子さん逝く - 高世仁の「諸悪莫作」日記については
「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年2/6日分:荒木和博&高世仁の巻、ほか)(副題:有本嘉代子が死去) - bogus-simotukareのブログでコメントしています。

 有本恵子さんは誰がどのようにして北朝鮮へと連れて行ったのか。
 2002年3月12日、東京地裁104号法廷でその謎は解き明かされた。
 そこで開かれたのは、「よど号」犯の妻、赤木(旧姓金子)恵美子の第3回公判。彼女は前年に帰国すると同時に逮捕され、旅券法違反などの容疑で起訴されていた。
 この日証言に立つのは、同じ「よど号」犯の妻として、赤木恵美子のかつての同志だった八尾恵(やお・めぐみ)。
 八尾はすでに前年、『週刊新潮』に載せた3回の手記で、「よど号」犯とその妻たちが日本人拉致に直接に関与したと暴露し、家族会はじめ関係者に大きな衝撃を与えていた。
 警察と検察は、01年9月の赤木恵美子逮捕から十数回にわたり「参考人」として八尾を聴取。同年12月23日、八尾は恵子さん拉致に自分が関わったと供述したとされ、彼女の立場は、赤木事件の「参考人」から有本恵子拉致事件の「被疑者」へと変わっていた。
 八尾の法廷証言を翌日に控えた3月11日、警察庁有本恵子失踪事件の捜査本部を設置したことをマスコミがいっせいに報じた。テレビ朝日は、八尾が有本夫妻の足もとに土下座し、「恵子さんは私が拉致しました」と泣き崩れるスクープ映像を11日夕方ニュースから流し始める。八尾は3月2日に横浜のホテルで有本夫妻に会って謝罪しており、テレビ朝日はこれを独占取材していたのだった。
 こうして3月12日の八尾の法廷証言には国民的な関心が寄せられ、傍聴席には、有本明弘さんと嘉代子さん、横田めぐみさんの両親の滋さんと早紀江さん、多くのマスコミ関係者、さらには「よど号」犯の娘3人(前年に帰国していた)まで姿を見せた。
 当日の主要紙朝刊一面トップはすべてこのニュースで、「『有本さん、北朝鮮に拉致』/『よど号』メンバー元妻供述/警察庁が捜査本部」(朝日)などの大見出しが躍っていた。
 この半年後の小泉首相の訪朝(02年9月18日)をはじめ、その後の拉致問題の状況全体に大きなインパクトを与えることになったのである。

 「小泉氏、田中均氏など関係者が証言しない限り分かりませんが」、小泉訪朝に話を限れば八尾証言(2002年3月の法廷証言でアレ、2001年の週刊誌の告発手記でアレ)の影響はほとんどないんじゃないか。もっと早い時点で交渉を始めてるんじゃないですかね?。
 2002年の八尾証言、あるいは2001年の手記発表の前から、石高健次『金正日の拉致指令』(1996年、朝日新聞社)、横田早紀江『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(1999年、草思社→2011年、草思社文庫)などで拉致は話題になっていましたし。そしてインパクトという面で言えば、八尾より「1997年の安明進証言&それを契機にした家族会の結成」の方が大きいでしょう。
 また、巣くう会や家族会が「北朝鮮は信用できない!」として、小泉訪朝後に制裁を叫んだ理由はもっぱら「めぐみさん偽遺骨問題」であって八尾の証言は関係ないし。
 もちろん八尾の証言が「無意味でどうでもいい」とは言いませんが、そのインパクトは「拉致一般」ではなく「八尾の仲間だったよど号グループ」にとって大きかったにすぎないでしょう。
 つうか、拉致問題ってもっぱら「中学生少女なのに暴力的に連行された横田めぐみさんの話(他の拉致被害者は全員、成人の男女です)」ばかりされて八尾が関わったという有本恵子さんの話なんか「当時も今も」大して注目されてないと思いますが。
 俺が思うに一番有名な拉致被害者は「一番かわいそうな(?)横田めぐみさん」で次が「李恩恵(大韓機爆破犯・金賢姫日本語教師で日本人拉致被害者とされる女性)の正体」と噂される「田口八重子さん(拉致当時、子どもが幼かったので、彼女の兄が義理の父親になったという辺りも同情を呼ぶ)」で三番目が「曽我ひとみさんの母親である曽我ミヨシ」さんじゃないか。
 まあ、田原氏の裁判の件で「有本さん」に注目が集まったこともありますが、あの裁判も結局「巣くう会、家族会が望むような終わり方(原告の全面勝訴)」でなかったこともあって、巣くう会や家族会も大して騒がず、今や忘れ去られてますよね。

 歩きながら満席の傍聴席をゆっくり見回す。そこには「よど号」犯の子どもたちやかつての同志、「よど号」犯の支援者もいる。八尾の口元には、意外にも微笑みが浮かんでいた。
 差し違える覚悟だな・・・私は彼女の表情を見てそう思った。

 八尾の法廷証言や著書『謝罪します』(2002年、文藝春秋)出版をたたえる「反北朝鮮」高世です。
 ちなみに「家族会や巣くう会」と決別し、刺し違える覚悟で『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々 』(2015年、講談社)を出版した蓮池透氏について高世がどう評価してるのか、是非聞きたいところです。もちろん横田奥さんにこびへつらう高世は、蓮池本について「好意的評価」をしないものの、「巣くう会、家族会以外は必ずしも蓮池氏に否定的ではない」ために、蓮池批判も出来ず、何も言わずに逃げ続ける醜態をさらしてるわけですが。俺は高世のような「恥知らずのクズ」には嫌悪感や軽蔑、憎悪を禁じ得ませんね。

今日の産経ニュース(2020年2月9日分)

新型肺炎の恐怖で逆風の北 拉致解決へ政府は局面見極め大胆に動け (1/2ページ) - 産経ニュース
 やれやれですね。新型コロナでは「北朝鮮ガー」以前に日本観光業が「中国人観光客激減」ダメージを受けているし、今、日本人同胞が「横浜港の豪華客船で足止め状態になって苦しんでる」のですが、そんなことは産経や巣くう会といったウヨにとってはどうでもいいようです。
 そもそも「新型コロナ」で「北朝鮮が中国人観光客の入国をやめてる」からといって、「北朝鮮崩壊」と言う話ではない。
 そもそもいずれ新型コロナは終息するでしょうし、そうなれば中国人観光客は北朝鮮に戻ってくるでしょう。新型コロナのダメージは一時的なものでしかない。
 というと産経などは「新型コロナの影響が続くことを望む」といい出しかねませんが、そうなったら「日本観光業にもダメージ」です。
 「日本にはダメージはないが、北朝鮮にはダメージがある新型コロナ」なんて都合のいいもんはない。

 「雑草を食べても核開発計画を止めない」とロシアのプーチン大統領が指摘したように、しぶとい。

 このプーチン発言を『ただの事実認識』と見るお人好しは普通いないでしょう。
 プーチン政権は北朝鮮を明らかに支援している。つまりは「雑草」云々とは「だから制裁路線などやめるべきだ」という思惑がプーチンにあるわけです。
 そう言う状況下で「北朝鮮制裁」に効果なんかあるのか。どうみてもないでしょう。


「お互いが抱き合えてこそ解決」 “タイムリミット”意識の拉致被害者家族、政府に一層の奮起促す(1/2ページ) - 産経ニュース
 当たり前ですが「即時一括帰国」が可能ならそうすべきでしょう。
 誰も「即時一括帰国が簡単に可能」なら「段階的帰国も可」なんていわない。
 これは何だって同じです。沖縄県知事選だって「元自民党の翁長なんか立てたくない」「左派から立てたい」「当選しても、翁長は結局裏切るんじゃないか」という声は沖縄の左派(社民、共産、沖縄社会大衆党)からはあった。しかし「勝つ可能性」を考え「当選後、翁長が裏切らないよう厳しく監視しよう」ということで翁長擁立に踏み切ったわけです。
 失礼ながら「翁長氏に代わる候補」が左派にいれば共産党だって「元自民党の翁長氏」なんか立てたくはなかったでしょう。しかし「現実を考えて」翁長擁立に踏み切った。
 それは幸いにも翁長氏が裏切らなかったことで成功だったと言えるでしょう(ただし翁長氏が裏切らなかった理由の一つは「『政府方針は一切変更しない、沖縄県は政府方針を丸呑みしろ』という無茶苦茶な態度を安倍がとったため、翁長氏に妥協の余地がなくなったこと*1」であり、「橋本首相、小渕首相などある程度まともな首相なら、翁長氏が共産党などを裏切り妥協した可能性がないとは言えない」という意味では「翁長氏が裏切らなかったこと」は手放しで喜べない面がありますが)。
 北朝鮮拉致だって同じです。
 「翁長は裏切る可能性があるから他の奴がいい」といった場合、「自民が県知事選に勝利」し、結果として安倍自民を利した、つまり「沖縄基地問題が政府にとって有利になった(そして沖縄の基地反対運動にとって不利になった)」可能性があるのと同様、北朝鮮拉致だって「段階的帰国では帰れない人間が出る可能性がある」などといってメリットがあるのか。むしろ「帰れない人間が出る」どころか、今のままでは「一人も帰れない」でしょう。
 「一人も帰れないゼロ」と「たった一人でも帰ってくること」とどっちがマシか。それを考えたら「段階的帰国」こそが正道でしょう。
 「ふと気づいた」のですが、結局家族会がこうなるのは「巣くう会や安倍へのしがらみ、精神的依存」もあるでしょうが、帰国拉致被害者である「蓮池一家、地村一家、曽我一家(あるいは彼らの親族)」が必ずしも巣くう会、家族会運動に好意的でないことが大きいのではないか。
 まあ、「蓮池一家、地村一家、曽我一家(あるいは彼らの親族)」が帰国後、巣くう会や家族会に一定の感謝をしながらも彼らから離れるのはある意味当然でしょう。
 「帰国拉致被害者とその家族(あるいは彼らの親族)」にとっては「北朝鮮に残ってる人間の帰国」なんぞよりも「日本から長く離れて、浦島太郎状態になった帰国拉致被害者とその家族」が日本に適応していくことの方がよほど重要です。しかも巣くう会、家族会は「後に蓮池透氏が批判したように」、拉致の解決ではなく、反北朝鮮や九条改憲といった右翼的目的のために拉致を利用しているようにしか見えない。
 ところがそうした「帰国拉致被害者とその家族」の態度から「今は仲良しこよしだが一人でも帰国したらそいつは蓮池一家などのように家族会から離れてしまうかもしれない」「蓮池透氏にいたって俺たちを裏切って非難すら始めた」という疑心暗鬼に駆られた。ええ、俺は人間が「純真素朴ではなく、人並み程度にはゆがんでる*2」ので家族会についてもそう言う悪意の目で見てます。そもそも、そう言う「悪意の目」で見なければ「横田夫妻が孫と会うことを家族会が妨害したこと」も「横田夫妻が家族会を無視して孫と会っても何一つ横田夫妻批判しないこと」も理解が出来ないでしょう。
 家族会にとって大事なことは「拉致が解決すること」でも「横田夫妻が孫と会うこと」でもなく「横田夫妻が家族会から離脱しないこと」「離脱者が家族会から出ないこと」なんでしょう(ただし裏切り者と認定した蓮池透氏は家族会から除名する)。
 その結果が「そう言う離脱者を出さないためにも即時一括帰国しかないんだ」「帰国した拉致被害者の家族はいつ蓮池透のように裏切るか分からない」というふざけた話なのでしょう。
 「即時一括帰国なら俺だけが不幸になることはない。段階的帰国なら『俺の家族だけが帰国せず』、俺だけが不幸になるかもしれない。段階的帰国なら、また蓮池透のような裏切り者がでるかもしれない。そんなのは嫌だ!」ということでしょう。
 もちろん「段階的帰国」なら「自分の家族が帰国して」、「自分が幸せになる可能性」もあるわけですが「自分が不幸になる可能性があってもいい、とにかく自分だけが不幸になるのだけは嫌だ。だから即時一括帰国なんだ」という話なのでしょう。
 なんだかんだいって家族会には「拉致被害者家族相互の真の人間的信頼関係」などないのでしょう。「真の人間的信頼関係などないこと」を彼らもおそらく自覚している。
 だからこそ「組織の崩壊を避けるため」として「蓮池透除名」などという暴挙も平然とやった。その結果、「世間から見すてられて」、『もう俺たちには信用できるのは家族会仲間しか居ないんだ』とさらに世間無視に走って行った。しかしそれでも内心では「真の人間的信頼関係など家族間にないこと」を自覚している。

・失業者仲間から就職者が出たとき(しかし失業者である自分は就職できないとき)
・大学受験浪人仲間(同じ予備校に通う仲間)から合格者が出たとき(しかし自分は合格できないとき)
・婚活仲間(同じ合コンや婚活パーティーに参加している仲間)から結婚者が出たとき(しかし自分は結婚できないとき)

などで心から「おめでとう」といえない人間、「俺はあいつに見すてられた、裏切られた」「あいつは自分だけ幸せになればいいのか?」と逆恨み(?)する人間も当然中にいますが、それが「即時一括帰国」にこだわる家族会でしょう。
 俺のあげた例で言えば「お前だけ就職(あるいは進学、結婚)するのか!。俺を見すてるのか!」と因縁付ける馬鹿の集まりが家族会です。
 「お前が就職(あるいは進学、結婚)するまで、俺に就職(あるいは進学、結婚)するな、つうのか?」「俺が何でお前の犠牲にならないといけない?」と困惑するような馬鹿なことを家族会は言っている。
 にも関わらず「我々家族会は信頼関係で結ばれてる」と強弁する。ここまで、見ていて胸くその悪い醜悪な風景もあまりないと思います。


「即時一括帰国は絶対に譲れない」 拉致被害の家族会らが新運動方針を決定 - 産経ニュース

 即時一括帰国の方針に疑問を呈したり被害者の一部を帰国させる「部分的解決」案を呼びかけたりする主張も国内にあると指摘。一方で、厳しい制裁が北朝鮮を確実に追い詰め、拉致解決のチャンスは高まっているとし、「即時一括帰国こそが絶対に譲れない私たちの要求であり、その実現のためにこれからも戦い続ける」と訴えた。

 家族会はどこまでバカなのかと心底呆れます。
 「北朝鮮の崩壊を望まない」「北朝鮮の存在を緩衝国として利用している」「冷戦時代から強いつながりがある」中露が北朝鮮支援していることは明白なのにどこが「制裁が北朝鮮を追い詰めてる」のか。
 そもそも「中露の北朝鮮支援」を考えたら「制裁で追い詰める」というなら「中露の支援を断ち切る必要がある」(俺個人はそんなことは出来ないと思いますが)。
 従って「北朝鮮支援を断ち切ったら、中露にこういうお土産を日本からあげます」というアメであれ、「北朝鮮支援を続けてるならこういう制裁措置を日本から中露に加える」というムチでアレ、とにかく中露に支援をやめさせる必要がありますが、「こういう手段で中露の支援をやめさせる」と述べることができずに「中露の北朝鮮支援」から目を塞いでるのが巣くう会、家族会ですから心底呆れます。
 せいぜい「中露の北朝鮮支援」を理由に「安倍訪ロなんかやめろ」「習近平国賓訪日などやめろ」と中露や「巣くう会ほど反中露ではない安倍政権」に悪口する事ぐらいしか家族会、巣くう会はしません。
 何で「北朝鮮制裁」「拉致被害者即時一括帰国」なんてもんに固執するのか。そんなもんに固執して拉致解決の展望があるのか。従来通りの方針でどこが新方針なのか。
 この点、「思い切ったイメチェン。安倍打倒のためなら何でもする悲壮な覚悟を感じた。安倍批判派として共産党を高く評価したい」と肯定的に評価するか、「悪しき堕落、野合。中村や小沢のような疑惑政治家とつるむとは何事か。安倍打倒のためなら何でも許されるわけではない。共産党に失望した」と否定的に評価するかはともかく、「ゼネコン汚職での有罪判決を理由に批判していた中村喜四郎(宮沢内閣で建設相)に党大会での祝辞を述べさせたり*3第28回大会 共闘する野党・会派などからあいさつ/ゲスト 中村喜四郎さん/総選挙勝利 共産党の力必要)参照」、「西松建設疑惑を理由に批判していた小沢一郎・元民主党幹事長が主催する政治塾で志位委員長が講演したりする(野党連合政権へ「あとは政治決断」共産・志位氏が小沢塾で講演 - 産経ニュース参照)」日本共産党を「少しは見習え」といいたくなります。
 共産党の昨今の態度の方がよほど「新方針」でしょう。
 なお、俺は共産支持者ですので、基本的に共産党への見方は甘くなります*4が、まあ、中村の祝辞や小澤政治塾での講演は「安倍打倒のためにそれが有意義なら仕方がない」と容認する立場です。それくらい俺は「安倍政権の存在」に我慢がなりませんので。


【聞きたい。】池田悠さん 『一次史料が明かす 南京事件の真実』 - 産経ニュース(喜多由浩)
 産経が紹介するので勿論南京事件否定論というデマ本で、版元は例の「展転社」です。さすが喜多も『アキとカズ』(2015年、集広舎)なんて与太本を書く阿呆右翼だけのことはあります。
 南京事件については南京事件−日中戦争 小さな資料集を紹介しておきます。ここで紹介されてる「南京事件否定論デマ」を知っていれば大抵の南京事件否定論デマには反論できます。俺がブログに書いてる「南京事件否定論デマ批判」の元ネタの一つもこのサイトであり、大変感謝しています。
 あと、『南京大虐殺否定論13のウソ』(1999年、柏書房)も割とわかりやすくていいかと思います。

南京大虐殺否定論 13のウソ(一般書/単行本/日本歴史/) 柏書房株式会社
4 戦争時期の中国側の認識について*5(井上久士)
5 数字いじりの不毛な論争は虐殺の実態解明を遠ざける*6笠原十九司
6 据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だった*7本多勝一
8 虐殺か解放か――山田支隊捕虜約2万の行方*8(小野賢二)
9 国際法の解釈で事件を正当化できるか*9(吉田裕)
10 証言の不当な解釈で正当な事実認定はできない*10(渡辺春己)
11 妄想が産み出した「反日攪乱工作隊」説*11笠原十九司

などということで南京事件否定論というデマに突っ込みが入っています。
 「新しいデマを毎日量産する」なんてことは出来る話ではない。また「オレオレ詐欺」と同じで「だまされやすい人間をだませれば、それだけでも御の字」なので、大抵の否定論デマは「手垢のついたワンパターンなもの」が多く、南京事件否定論デマも

◆「ラーベ日記」のラーベ(ジーメンス社社員)は中国軍に武器を売っていた武器商人であり、中国軍のためにありもしない南京事件をでっちあげた。
→批判:
 そもそもラーベ以外にも山ほど事件の証言者はいるので彼一人をあげつらっても無意味ですがそれはさておき。大正時代のジーメンス事件(海軍を舞台にした贈収賄事件)のイメージから「ラーベ=武器商人」と言うデマが生じたのでしょうが、そもそもジーメンス事件でジーメンスが海軍に納入していたのは無線電信設備であって武器ではありません。また「ラーベ=武器商人説」を唱えるウヨも「印象操作をしているにすぎず」、ラーベ(あるいはジーメンス社)が中国軍に商品を納入していたとする具体的な証拠を提出したことはありません(たとえばラーベは武器商人か?参照)
◆南京には20万人しか人口がないから「30万人の虐殺」はありえない。
→批判:
 実際には30万人を超える人口が南京市にいたと推定されています。また、事件の被害者数には軍人(捕虜)虐殺が含まれるので、「軍人の数が含まれない南京市の人口」を持ち出すのは不適切です。したがって30万人の死者がいたとしても、何らおかしくありません。なお、30万人説は一つの説にすぎず「東京裁判での事実認定」や笠原十九司氏、秦郁彦などは30万人説ではありません(たとえば二十万都市で三十万虐殺?参照)。
◆ゲリラ兵狩りは合法だ
→批判:
 南京には「私服に着替えた兵」はいてもゲリラ兵(便衣兵)などいません。中国軍の敗残兵が私服(便衣)に着替えて逃げようとすることは「ゲリラ行為」ではなく違法ではありません。実際、日本軍は捕虜を軒並み虐殺していたので、私服への着替えを非難など出来ません(たとえば東中野氏「再現南京戦」(8) 国際法論争1東中野氏「再現南京戦」(9) 国際法論争2参照)。

などデマはワンパターンで批判は比較的容易です(詳しくは南京事件−日中戦争 小さな資料集を参照下さい)。
 比較的入手しやすい、南京事件関係著書(新書や文庫、ブックレット)としては、

【刊行年順】
藤原彰南京大虐殺』(1988年、岩波ブックレット)
笠原十九司南京事件』(1997年、岩波新書
笠原十九司南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)
秦郁彦南京事件(増補版)』(2007年、中公新書)
清水潔『「南京事件」を調査せよ』(2017年、文春文庫)
 北村稔『「南京事件」の探究』(2001年、文春新書)、早坂隆『松井石根南京事件の真実』(2011年、文春新書)という南京事件否定論本の版元・文春の本なのに「否定論を批判している」というある意味面白い本です。
笠原十九司『増補・南京事件論争史』(2018年、平凡社ライブラリー)

があります(秦は「10万人を超える死者が出た」と推定する笠原氏から「死者数が過小評価だ」と批判されていますが、その秦ですら「犠牲者4万人説」であり、産経のような否定論ではありません)。
 まあ、常識があれば、南京事件に限らず「その問題についての詳しい知識がなくても*12」、「日本・ユダヤ同祖論」であれ、「源義経・チンギスハン説」であれ、「本能寺の変豊臣秀吉黒幕説*13」であれ「地球温暖化原因CO2否定論(あるいはそもそも地球温暖化自体を否定する論)」であれ、「ホロコースト否定論」であれ、「911テロ・米国自作自演説」であれ、何であれ

・世界中のほとんどの人間、組織、国がその事実を認めてる(あるいは逆にその事実を否定している)がそれは、皆がぐるになったデマの拡散であり、そのことを俺が指摘する

なんて主張には「アホと違うか」「陰謀論もいい加減にしろ」で終わる話です。
 また「中国が捏造した、欧米なども共犯(ぐる)で嘘を広めてる」とネトウヨが強弁する南京事件の場合、「そんな政治力がある中国が香港デモやウイグル問題で欧米から批判をされてるのは何故か?」という問題もある。
 「皆がぐるになって嘘を流布させるほどの政治力を中国が保有してるのに、三流ライターの本一冊潰すことが出来ない」「南京事件について中国は欧米に嘘の流布をやらせてるのにウイグル問題や香港デモでは欧米の批判を受けている」なんてことは常識で考えてあり得る話ではない。それよりも「こいつの主張は陰謀論であり、故意に戦前日本を美化し、中国を誹謗するデマを拡散してる」「主観的にはデマではないが客観的にはデマ(つまりは妄想)」と見る方が自然です。
 何せ南京事件では現地軍最高司令官(中支那方面軍司令官)である松井石根東京裁判)と、第6師団師団長・谷寿夫(南京軍事法廷)が死刑になっています。
 ありもしない事件で死刑になってそれが未だに通用してるなんて事も通常あり得ない。
 こういう常識を働かせればある程度「詐欺」から逃げることも出来るわけです。つまり常識的に考えて「儲け話なんかそうそうない」ということですね。もちろん「詐欺のよくあるテクニックを事前に知っていた方が自己防衛に役立つことは確か」ですが。
 もちろん過去に「蒋介石秘録」で「蒋介石日記での南京事件批判」を紹介し、南京事件の実在を認めていた産経について言えば、「現在の南京事件否定論垂れ流し」は明らかに故意のデマ垂れ流しです。まあ、ほとんどの南京事件否定論者は故意のデマ垂れ流しでしょう。

参考
「蒋介石秘録」に見る南京大虐殺 - 誰かの妄想・はてなブログ版
産経新聞は歴史戦をするなら『蒋介石秘録』の南京事件の記述に対する総括をするべき! - 日の本の下で


自民・稲田氏、14条改憲による女性議員増目指す 独自案を表明 - 産経ニュース
 「新型コロナを口実に緊急事態条項導入論」にも呆れましたが、何でもかんでも改憲にこじつけようとは呆れます。
 そもそも「改憲政党」自民党改憲に反対する「立民党」「国民民主党」「共産党」「社民党」の候補と比べて「国政選挙での全候補者に占める女性割合」が極端に低い。それで何が「女性議員を増やすために改憲」なのか。
 女性議員を増やしたければ「自民党の議員候補者」にしめる女性の割合を「野党各党並みに」増やせばいいだけの話です。
 あるいはいっそのこと「いわゆるクオーター制を導入してはどうか*14」?。あるいは「女性議員当選を阻んでる」といわれる「小選挙区制」「供託金」の廃止*15などをしてはどうか。「小選挙区や供託金の廃止」にはもちろん改憲など必要がない。
 これが「女性議員増加のためにクオーター制を導入したい、しかしそのためにはホニャララという改憲が必要だ*16」という具体的提案ならまだしも、稲田*17の主張はどう見てもそんなまともなものではない。
 まあ、仮に「クオーター制導入改憲論」だとしてもそんなものが稲田の本心ではないことはモロバレですが。「改憲の本丸・九条改憲を飲ませるための目くらまし」でしかない。
 「男尊女卑・日本会議とズブズブの野郎がフェミニスト面してんじゃねえよ!」て話です。
 いずれにせよ「新型コロナガー、緊急事態条項ガー」「女性議員の増加ガー、男女平等条項(現行憲法第14条)の改正ガー」と言い出すこと自体「本丸・九条改憲」をストレートに出したら「自民支持層からも批判が出るだろう」と自民が恐れてることは分かります。

*1:さすがに何のメリットもなしに妥協することは翁長氏に限らず誰だって出来る話ではない。

*2:まあ、でも「赤旗日曜版や岩波世界に過去にコラムを持ち、リベラルぶっていた義家浩介」が「自民党から出馬して反共、反日教組発言」をし、「安倍政権下で文科副大臣をやるほどの変節野郎」とは思ってなかったし、誠実ぶってるid:Mukkeid:noharraが「あそこまでクズだとは当初思ってなかった」ので割と「純朴な人間ではないか」と思っています。

*3:勿論メインは中村ではなく「来賓として出席した立民、国民民主、社民の党幹部」ですが。

*4:この点は「守る会幹部・三浦小太郎批判を逃げながら身びいきを否定する、守る会会員id:noharra」「ダライラマ批判、ペマ・ギャルポ批判を逃げながら身びいきを否定する自称チベット支援者id:Mukke」のような「卑劣で下劣な事」はしたくないので正直に「できるだけ共産党評価について公正中立でありたいと思うが、無意識に身びいきしていると思う」と認めておきます。

*5:「戦争時期の中国側の認識」についてはたとえば中国は知らなかったか?中国共産党は知らなかったかを参照下さい。

*6:「虐殺の推定被害者数」については南京事件の犠牲者数を参照下さい。

*7:「据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だったこと」についてはたとえば捕虜の試し斬りを参照下さい。

*8:「山田支隊捕虜約2万の虐殺」についてはたとえば東中野氏「再現南京戦」(5) 「幕府山事件」(1)東中野氏「再現南京戦」(6) 「幕府山事件」(2)東中野氏「再現南京戦」(7)を参照下さい。

*9:国際法の解釈でいわゆる便衣兵狩が正当化できないこと」が論じられています。東中野氏「再現南京戦」(8) 国際法論争1東中野氏「再現南京戦」(9) 国際法論争2で紹介されてる吉田氏の主張と概ね内容は同じです。

*10:「証言者を嘘つき扱いする暴論」についてはたとえばマギー証言への評価マギーの偽証?夏琴淑さん事件ベイツ=中華民国顧問説ラーベが報告する「犠牲者数」平気で嘘をつく人?夏淑琴さん事件 SAPIO編夏淑琴さん事件 東中野修道氏「徹底検証」編を参照下さい。

*11:反日攪乱工作隊」デマについてはたとえば反日撹乱工作隊(1)反日撹乱工作隊(2)反日撹乱工作隊(3)反日撹乱工作隊(4)中国軍隊の仕業?を参照下さい。

*12:あった方がいいのは勿論ですが、全ての問題について詳細な知識を持つことは不可能ですので。

*13:まあ、結果的にあの事件で一番得をしたのは「織田信長を暗殺した明智光秀」ではなく、「光秀を討ち、その後も、柴田勝家を滅ぼし、徳川家康を屈服させ、信長に代わって天下人に成り上がった」秀吉ですのでね。「桜田門外の変で一番得をしたのは暗殺犯の所属した水戸藩ではなく薩長」「朴正熙暗殺事件で一番得をしたのは大統領に成り上がった全斗煥」みたいな話です。もちろん、娯楽歴史小説ならそう言う「秀吉黒幕説」の設定のものもありますが、学問的には全く無価値な陰謀論にすぎません。

*14:俺個人が導入派というわけではなく、「クオーター制導入」のような具体策もなしで女性議員が増えるわけもないという話です。

*15:女性差別国家・日本」においては女性議員の多くは「いわゆるサンバン(看板(知名度)、鞄(資金力)、地盤)」が弱いので、「サンバンが弱くても当選できるようにする→小選挙区や供託金の廃止」つう話です。まあ「小選挙区や供託金の廃止」は自民にとっては不利益なのでやりたがらないでしょうが。

*16:クオーター制の導入には改憲は必要ない、法律の制定だけで問題ないというのが通説です。

*17:第二次安倍内閣行革相、自民党政調会長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣防衛相など歴任

今日の産経ニュース(2020年2月8日分)

【昭和天皇の87年】日本の敗戦 大東亜共栄の大義は間違いだったのか - 産経ニュース
 今時「大東亜戦争(太平洋戦争)の大義=東南アジアの独立」などというデマを公言するとは呆れますね。
 あの戦争は
1)日中戦争について中国側にたつ英米を叩き、日中戦争を有利にする
2)英国領マレーシア、オランダ領インドネシア、米国領フィリピン、フランス領インドシナ(今のベトナムなど)など欧米の植民地をぶんどって日本の領土(植民地)にすること(インドネシアの石油利権などを手にすること)
が目的であって、「東南アジアの独立」などというのはデマです。
 そもそも「インドで独立運動の中心となったガンジーやネール」は戦争では英国側にたちましたし、ベトナムホーチミンは日本の支援など受けていません。ベトナムインドネシアでは「1945年の日本の敗戦後」に「宗主国との独立戦争」が始まっており、「日本が太平洋戦争を起こしたから独立できた」という単純な話ではない。
 そもそも「朝鮮や台湾を植民地にした日本」、「エチオピアを植民地とするイタリアと軍事同盟を結ぶ日本」の何が「東南アジアの独立」なのか。
 そして産経は別の所では「ハルノートが中国からの撤退を要求するのが悪い」「米国が石油やくず鉄の禁輸なんかするから悪い」といってることと「東南アジアの独立」云々と明らかに矛盾するでしょうに。

 ポツダム宣言発表の2日後、昭和20年7月28日、首相の鈴木貫太郎*1は(ボーガス注:「ポツダム宣言」の「武装解除」部分などに反発する)軍部の突き上げを受け、定例記者会見でコメントした。
 「(ボーガス注:国体護持について明確な記載がない)(ポツダム宣言に)重大なる価値ありとは考へない、ただ黙殺あるばかりで戦争完遂に対する既定方針に何ら変更はない」-
 この土壇場で、受諾拒否ともいえる意思表示は重大な結果を招きかねない。外相の東郷茂徳*2は鈴木に抗議したが、後の祭りだった。対ソ交渉を優先するあまり、ポツダム宣言への対応について政府内で意思統一が図られていなかったことが、そもそも問題だろう(※2)。

 建前はずっと「徹底抗戦」ですからね。かつ昭和天皇や軍部が「国体護持」に固執する以上、「政治的失脚を鈴木が恐れて」こういう話になってしまうわけです。
 「モンスターと化してしまった」救う会、家族会を、政府が恐れて「経済制裁あるのみ」「拉致被害者の即時一括帰国あるのみ」で拉致問題が解決しない今の惨状とある意味似ています。
 「拉致問題での救う会、家族会の対北朝鮮強硬路線」と「戦前日本の対米強硬路線(ポツダム宣言拒否)」に違いがあるとすれば
1)戦争が終わらないと日本人全員が困るが、拉致が解決しなくてもほとんどの日本人は何一つ困らない
2)ポツダム宣言受諾を拒否した日本は「原爆投下」など米国に酷い目にあわされたが、北朝鮮にはそんなことをするパワーはない
程度の事でしょうか。

(※2) 鈴木は「黙殺」発言について戦後、「この一言は後々に至る迄、余の誠に遺憾と思う点であり、この一言を余に無理強いに答弁させた所に、当時の軍部の極端な抗戦意識が、如何に冷静なる判断を欠いて居たかが判るのである」と弁明している(終戦史録)

 「言いたくなかったけど、軍部が恫喝するから仕方なく言った」って「お前、ふざけんな」「首相のくせに責任転嫁するな」「恥を知れ」て話ですね。

 「聖断」がなければ、犠牲がさらに拡大したことは疑いない。

 逆ですね。「昭和天皇の戦争責任研究」をライフワークとする山田朗氏などが批判するように「遅すぎた聖断」でした。この点は山田氏の著作『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『遅すぎた聖断:昭和天皇の戦争指導と戦争責任』(纐纈厚氏との共著、1991年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社)が詳しいですが。もっと早く降伏していれば「東京大空襲(1945年3月)」「沖縄戦(1945年4~6月)」の悲劇はありませんでした。そもそも東条*3内閣の「崩壊理由」である「1944年7月のサイパン陥落」時点で日本の敗北は確定してました。その時点で降伏すれば「犠牲はもっと少なかった」。
 しかし、「国体護持」、つまり「自らと天皇一族の保身」にこだわる昭和天皇は降伏せず、いたずらに犠牲を増やしました。

 少なくとも戦争終盤において、名も無き日本兵の、命にかえての奮戦は、決して無駄ではなかった。無条件降伏要求の壁を崩し、条件明記のポツダム宣言をもたらしたからだ。

 やれやれですね。
 「日本兵の奮闘」が「米国による戦後の天皇制温存政策につながった」というなら正しいかもしれない。
 しかし「ポツダム宣言が条件降伏」というのは明らかなデマです。条件降伏でないから、昭和天皇は受諾を躊躇し「ソ連の対日参戦」で「ソ連を仲介役とした和平構想」が崩壊し「受諾は不可避」と思うまでは「ソ連を使った和平構想」に固執しました。
 そして「日本兵の奮闘」が「米国による戦後の天皇制温存政策につながった」としても、そんなことは「天皇制維持のためにはどれだけ日本人が死んでもかまわない」という産経や日本会議神社本庁のような「天皇制至上主義の極右」のみに通用する話です。俺はそんな立場ではない。俺は「天皇制が廃止されようとも日本人の死者が少ない方が良かった。もっと早く降伏すれば良かった」「保身のために降伏を遅らせたくせに『終戦の聖断』と強弁する昭和天皇が許せない」という立場です。


【昭和天皇の87年】「ミカドの保持を」…ポツダム宣言は無条件降伏ではなかった - 産経ニュース

 重要なのは、ポツダム宣言が「条件」を明記している点だ。「無条件降伏」の文言はあるが、それは国家に対してではなく、軍隊に対して求めている。しかるに戦後、「日本は無条件降伏をしたのだから何をされても文句はいえない」とする誤解や歪曲が意図的に広められ、現在の日本を歪める一因となっているのだが、それは後述する。

 まあ何というか突っ込みどころしかないアホ文章です。
 第一に「日本軍は無条件で降伏しろ」という勧告をどう理解すれば「日本国の無条件降伏を求めてない」と理解できるのか。
 そんな理解はへりくつでしかないし、もちろん昭和天皇以下、当時の日本政府はそんなとんちんかんな理解はしませんでした。彼らは「これは無条件降伏要求だ」と「正しく理解」したからこそ、宣言を当初受諾しなかったわけです。
 第二に「無条件降伏」というのは「事実認識」でしかありません。
 当然ながらそうした事実認識は「だから日本は連合国にどんな扱いを受けても仕方がない」という価値観を当然にはもたらしません。
 「事実認識」と「価値観」は別物ですし、日本の降伏は事実認識として「無条件降伏」としか理解しようがないでしょう。繰り返しますが、もちろん昭和天皇以下、当時の日本政府は「これは無条件降伏要求だ」と「正しく理解」したからこそ、宣言を当初受諾しなかったわけです。

 いずれにせよ、日本民族が綿々と受け継ぎ、日本軍将兵が命にかえて守ろうとした国体*4は、明文化こそされなかったものの、保持されると読み取れよう(※4)

 どう理解すればそんな理解が出来るのか。ポツダム宣言のどこにもそんなことは書いていません。
 実際には「天皇制を維持すべきだ(ジョセフ・グルー*5国務次官(元駐日大使)など*6)」「廃止すべきだ(バーンズ国務長官など)」「今すぐに結論を出さずにひとまず保留にしよう」など米国政府内の意見が分かれていて統一意見が出来なかったがために天皇制については何も書かなかったのが事実でしょう。そしてそれについて当時の日本政府は「天皇制について何も書いてないから不安だ」として受諾を当初否定したわけです。


育休給付金、給与の80%へ引き上げ 男性取得推進へ検討 - 産経ニュース
収入手厚く…男性の育休取得、背中押す政府 少子化阻止に危機感 - 産経ニュース

 政府が育休給付金の引き上げを検討するのは、特に男性に懸念が多い収入面の手当てを厚くして育休の取得を進め、夫婦が協力して育児に携わる環境を整えるためだ。

 改憲なんてもんは世間受けが明らかに悪いし、「小泉jrの育休が話題」だし、「少子化対策で頑張ってる感じを出してみるか」「少子化対策なら各論はともかく総論としてなら野党も皆賛成してるし(改憲の場合、総論でも反対が多い)」つうことなんでしょうね。
 「金のばらまき」なら世間受けは良さそうですし。選挙前に自民が「金のばらまき」をやりたがるのはいつもの話です。
 まあ一方で消費税増税など国民負担増政策してるんで「朝三暮四も甚だしい話」で「育休給付金が増えても、『消費税増税』とか、他を減らしてるんだから、トータルでは国民に大してメリットないだろ!」「馬鹿にしてるのか!」と思いますが。
 で「少子化対策が受けたらその後で改憲とかに可能なら手を出そう」と。
 当然ながらこういうことやり出した背景には「ロシア外交」も「拉致」もろくな成果が上がらず「何か世間受けのいいもんやらないと次の選挙が危ない、改憲できるか分からない」とか「安倍政権としてのレガシーを残したい」とかあるんでしょうね。まあ、今更ですが安倍に拉致を解決する気なんかかけらもないでしょう。


【田村秀男のお金は知っている】「新型ウイルス、経済への衝撃」にだまされるな! 災厄自体は一過性、騒ぎが収まると個人消費は上昇に転じる - 産経ニュース
 消費税増税などの影響を考えれば「新型コロナが収まれば消費は上向く」かどうか疑問ですが、それはさておき。
 現時点において「中国人観光客の減少」などの被害があり、新型コロナの沈静化の見通しも立ってないのにこんなことをいうのは「楽観論がすぎる」というべきでしょう。

 連日のように訪日中国人の旅行消費が減ったり、中国の現地工場の生産に支障をきたすと騒ぎ立てる国内メディアとは一線を画したい。

 アンチ中国の産経・田村はそうした事実から目を塞ぎたいのでしょうが、事実は事実です。

 米トランプ政権のように中国人の入国禁止など思い切った隔離政策に逡巡(しゅんじゅん)しているように見える安倍晋三政権の対応に違和感を覚える。

 そりゃそんな政策をとったら観光業への経済的ダメージがでかいですからね。
 かつ「現時点では」WHOはそうした入国禁止政策をとる必要はないとしている。
 また、現時点での公開データを信じる限り新型コロナは「ワクチンがない」とはいえ死亡率、感染率ともにインフルエンザと同程度です。
 「新型コロナが蔓延してる武漢湖北省(これについては安倍も現時点で入国禁止にしています)」ならまだしも中国全土を「入国禁止にする必要は乏しい」と見るべきでしょう。

*1:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相を歴任

*2:東条、鈴木内閣で外相。戦後、禁固20年の判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀

*3:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*4:国家体制の意味。この場合は天皇制のこと。

*5:著書『滞日十年』(ちくま学芸文庫

*6:戦後の対日政策では最終的にはグルー路線が採用され、天皇制廃止や昭和天皇訴追どころか、昭和天皇退位すらありませんでした。