「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/25日:島田洋一の巻)

◆島田ツイート

島田洋一
 核不拡散条約(NPT)に囚われず独自核抑止力をと言うと、大抵の政治家、官僚は「許されない!」と思考停止に陥るが、少しは外の世界を見るべき。
 北朝鮮は30年前(ボーガス注:の1992年)にNPT脱退。

 「つまり北朝鮮を見習って、脱退して核保有しろとでも?」と言う話です。それやったら確実に日本が非難されるし、日本が今後北朝鮮を非難することもできなくなる。まさか「米国は北朝鮮の脱退は認めないが、日本の脱退は認めるはずだ。なぜなら北朝鮮は反米だが日本は親米だから」とでも思ってるのか。
 はたまた「米国が北朝鮮へ制裁したように『核保有』の日本に何か制裁や報復をする気なら受けて立とうじゃねえか、米国に舐められてたまるか」とでも言い出すのか。

島田洋一
 民主党政権時代、拉致問題に関する岡田克也*1外相のお座なりな挨拶を(ボーガス注:救う会集会で?)聴かされる中で、飯塚繁雄家族会代表が昏倒した。すぐに周りが介抱して事なきを得たが、無意味な演説は疲れた身体にこたえる。
首相演説、聴衆倒れ中断 猛暑の渋谷、約3分 - 産経ニュース

 吹き出しました。「岡田が飯塚の体調を悪化させるような無茶苦茶なことをやった(やってないでしょうが)」というならともかく岡田演説がどうこうではなく、飯塚の体調不良にすぎないでしょう。むしろそんな体調の飯塚を出席させた「家族会や救う会」の責任が問われます。岸田演説にしても、「岸田が聴衆の体調を悪化させるような無茶苦茶なことをやった(やってないでしょうが)」というならともかく「昏倒は岸田のせいではない」。勿論安倍演説で「昏倒する人間」がでたとしても「猛暑だから仕方がない、安倍さんのせいではない(確かにその通りではありますが)」が島田でしょう。

島田洋一 
 核ミサイル開発でソ連の先行を印象付けたスプートニク・ショックを受けNATO首脳会議が核共有を決めたのが1957年。英仏は同時に独自核開発も。
 日本はそれから65年を経て、岸田文雄広島副市長を中心に、独自核はおろか核共有すら検討しないと宣言。中朝露*2になめられるのも無理はない

 赤字部分に絶句です。もちろん誤記ではなく「岸田なんて広島市副市長がお似合いだ」という悪口のつもりでしょうが。しかもその悪口理由が「非核三原則堅持を主張(岸田)」。

島田洋一
 1945年8月の広島市民は、「まもなく原爆で皆さん亡くなるが、世界に核廃絶を訴えていきます」と言う政治家と、「実は日本も秘密開発した核爆弾を持っており、相手が使えば報復する旨、しっかり発信します」と言う政治家のどちらを有難い*3と思うだろうか。

 「張作霖暗殺について厳罰で臨んでいれば、その後の関東軍の暴走(満州事変など)はなかったのでは?」「トラウトマン和平工作が成立していたら日中戦争は終了したのでは?」「ハルノートを受諾していたら日米開戦は回避できたのでは?」などある程度「現実性のある想定」ならともかく、馬鹿馬鹿しくて話になりません。
 そもそも当時の日本は核兵器開発ができる技術力は皆無だったことは以前、拙記事新刊紹介:「歴史評論」8月号(追記あり) - bogus-simotukareのブログ(2019.7.12)でも触れたところです。

日本陸軍の原爆開発計画「ニ号研究」(仁科芳雄理化学研究所教授が中心人物)
日本海軍の原爆開発計画「F研究」(荒勝文策*4京都帝国大学教授が中心人物)

のいずれも挫折しました。 
 そして「戦前、核開発計画に関与した」ものの、戦後は「核廃絶の立場」で活動した湯川秀樹(京大所属。F研究に関与したとされる)や朝永振一郎理研所属。仁科の弟子で、二号研究に関与したとされる)(いずれも世界平和アピール七人委員会 - Wikipediaの委員)は島田にとってどう評価されるのか?

*1:鳩山、菅内閣外相、民主党幹事長(菅代表時代)、野田内閣副総理・行革相、民主党代表代行(海江田代表時代)、民主党代表などを経て立憲民主党常任顧問

*2:ロシアに舐められてた典型は「首相在任中プーチンとの友好関係を自慢した」のにプーチンからは何の政治的成果も得られなかった安倍でしょうに「安倍信者」が良くも言ったもんです。

*3:むしろ現実性を考えれば「日本には原爆を開発する能力がない。もはや米国に勝つ見込みもない。だから降伏します」という政治家をありがたく思うでしょう。実際には昭和天皇は保身のため「降伏を徹底的に遅らせました」が。

*4:荒勝については荒勝文策教授の暴言を思い出した - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照

「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/25日分:荒木和博の巻)(副題:6/25は朝鮮戦争勃発の日)

拓大国際講座「プーチンのウクライナ征伐」: 荒木和博BLOG
 「桃太郎の鬼ヶ島征伐」という言葉で分かるように「征伐」という言葉には「悪者の打倒」というニュアンスがあります。
 【1】「武力攻撃」「侵攻」といった「中立的な表現」、【2】「侵略」といった「否定的な表現」とは意味が大きく違う(ウクライナについては武力攻撃、侵攻、侵略がメディアでの一般的表現かと思います)。
 勿論「プーチン批判派」小泉悠*1が講師なので、この講座は
【1】「プーチンは善、ウクライナは悪」という立場でないこと
【2】おそらく、この「征伐」とは「(小泉らが考える)プーチン政権の立場*2」であるということ
は「予想はつく」(とはいえ、その場合普通は『ウクライナ「征伐」』と征伐にカギ括弧をつけるのですが)。
 とはいえ、「一応その点について、荒木も簡単にであれ、触れるべき」でしょうに触れないのだから絶句です。

【参考:征伐】

征伐 - Wikipedia参照
 反社会的な犯罪集団などを、武力で処罰、懲罰したりすること。「征討」、「討伐」と同義語。最近では「征伐される相手」を悪と決めつけることはできないとして、使用例が減り、「征伐」に代えて「平定」など別の言葉を用いることが増えている。
【日本史における「征伐(征討、討伐)」の例:現在ではこれらは「征伐」表現は避けられる傾向にはあります】
◆3世紀:神功皇后三韓征伐
 但し、神話であり実在の出来事そのままではない。
◆古代~14世紀:蝦夷征伐
蝦夷平定
 「征夷大将軍(源氏、足利氏、徳川氏)」というのも元々は「蝦夷征伐」が任務だったわけです。少なくとも「奥州合戦*3」以降は「征夷」に実質的意味はなくなったと言っていいでしょうが。
◆奥州征伐
→1189年:奥州合戦鎌倉幕府奥州藤原氏を滅ぼした)
 1590年:奥州仕置(豊臣秀吉による伊達政宗服属)
甲州征伐(武田征伐)(1582年)
→武田攻め。織田信長武田勝頼を滅ぼした(武田本家は勝頼の自害で滅んだが、分家が徳川家に旗本(高家)として仕えた)
四国征伐(1585年)
→ 四国攻め、四国の役、四国平定。豊臣秀吉長宗我部元親を服属させた
九州征伐(島津征伐)(1587年)
→島津攻め、九州攻め、九州の役、九州平定。豊臣秀吉が島津氏を服属させた
小田原征伐 (北条征伐、関東征伐)(1590年)
→小田原合戦、小田原の陣、小田原攻め、小田原の役、関東平定。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした(但し、北条氏の子孫が、後に河内狭山藩を与えられ大名に復帰)
◆朝鮮征伐(1591~1598年)
文禄・慶長の役。(秀吉の)朝鮮出兵朝鮮侵略。壬申・丁酉の倭乱(韓国側の呼び方)。万暦朝鮮の役(中国側の呼び方)
会津征伐(上杉征伐)(1600年)
会津攻め。徳川家康による会津藩主・上杉景勝への出兵(後に上杉氏は、関ヶ原合戦に勝利した家康により会津藩から米沢藩に減封処分)。家康が出兵のため、大阪を離れた際に石田三成らが家康相手に挙兵したことで、関ヶ原合戦が発生。家康は上杉と戦うことはなく、最上義光伊達政宗の連合軍が上杉氏と戦い勝利(慶長出羽合戦 - Wikipedia
琉球征伐(1609年)
→(薩摩藩の)琉球侵攻、琉球侵略。琉球の役。
◆長州征伐(長州征討)(1864年、1866年)
→長州戦争、長州出兵、幕長戦争、長州の役。第一次では幕府が勝利したが、第二次では幕府が敗北
会津征伐(1868年)
会津戦争明治新政府軍による会津藩への攻撃
◆台湾征伐(1874年)
台湾出兵明治新政府の初めての対外戦争。
◆台湾征伐(1895年)
台湾征服戦争、台湾平定。乙未戦争(中国側での呼び方)。下関条約日清戦争講和条約)で日本への割譲が決まった台湾に対する征服戦争

<東北の本棚>地方の視点で歴史検証 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS2022.3.27
◆『中世奥羽の世界』(新装版)
 1978年の名著が復刊された。
 入間田氏*4は「鎌倉幕府と奥羽両国」で、源頼朝奥州藤原氏を撃破した軍事行動について、それまで使われていた「奥州征伐」ではなく、「奥州合戦」と呼ぶように提案した。「征伐」は奥羽の人々からすれば侵略行動にほかならないためだ。今は「奥州合戦」という呼称も定着した。

越後国主に家康「心得た」 書状発見、会津征伐準備か: 日本経済新聞2022.5.30
 徳川家康が1600年5月に越後国主の堀秀治に送ったとみられる書状が、富山県で見つかった。「そちらの報告は心得た」とあり、関ケ原の戦いにつながった陸奥会津領主・上杉景勝征伐(会津征伐)に向け、家康が情報を集めていた様子がうかがえる。駿河台大(埼玉県)の黒田基樹*5教授(歴史学)は「家康の作戦や時系列を知る手掛かりになる」と話す。
 6月に始まった会津征伐は、7月に石田三成が挙兵し中断。全国の大名を巻き込み、9月の関ケ原の戦いにつながった。


足達俊之さんの特集(北陸放送): 荒木和博BLOG
 足達さんは勿論「特定失踪者」なので馬鹿馬鹿しい限りです。


朝鮮戦争二人の錯誤(R4.6.25): 荒木和博BLOG
 6分20秒の動画です。タイトルだけで見る気が失せます(一応見ましたが)。実に馬鹿馬鹿しい。
 何が馬鹿馬鹿しいか。
 荒木の言う「錯誤」が「朝鮮戦争勝利(米軍介入前に戦争が終わる)」を期待したであろう「スターリン毛沢東金日成」であれ、北朝鮮の侵攻を予想しなかったであろう「トルーマンや李承晩」であれ、そんなことが荒木が建前とする「拉致被害者帰国」と何の関係があるのか。何の関係もない。
 なお、何故荒木が、「6月25日」に朝鮮戦争の話をしたかというと「1950年6月25日」に北朝鮮の侵攻で朝鮮戦争が開戦されたからです。 
 ちなみに荒木の言う「二人の錯誤」とは一つは「金日成朝鮮戦争勝利予想」でこれは「俺の予想通り」です。
 もう一人は「朝鮮戦争を予想してなかった」マッカーサー*6だそうです。こちらは俺が朝鮮戦争マッカーサーについて無知なこともあり、予想してませんでした。なお、ダグラス・マッカーサー - Wikipediaによればマッカーサー北朝鮮を舐めていますね。割と有名な話なんでしょう。
【参考:マッカーサー
マッカーサーの錯誤1:北朝鮮軍の軽視】

ダグラス・マッカーサー - Wikipedia
 朝鮮戦争開戦当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしなかった。北朝鮮軍が侵攻した1950年6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。私は腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス*7国務長官顧問らに語っている。マッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオ*8アメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と反論している。ダレスら国務省には韓国軍の潰走の情報が入ってきており、マッカーサーGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行した国務省ジョン・ムーア・アリソン*9はそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している。6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察など簡単に処理すると自信満々で語っていた時とは変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。我々が唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、アリソンはその風貌の変化に驚き「私はこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後に回想している。

マッカーサーの錯誤2:中国軍の軽視】
 なお、荒木も動画で話していますが、その後もマッカーサーは「1950年9月の仁川上陸作戦*10の成功でまた楽観論に傾斜」し、以下の錯誤(中国の軍事力を舐めた結果、奇襲攻撃で米軍が大打撃)を犯しています。
 マッカーサーの場合【1】周囲にイエスマンを置きたがる、苦言を呈した人間を遠ざける、【2】失敗は部下の責任に、成功は自分の手柄にしたがる、という性格的欠陥が酷いように思います。

ダグラス・マッカーサー - Wikipedia参照
 1950年9月の仁川上陸作戦の成功により、国連軍最高司令官マッカーサーの自信は肥大化した。10月15日にウェーク島で、トルーマン大統領とマッカーサー朝鮮戦争について協議を行った。会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は1950年の感謝祭(11月24日)までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの過剰な楽観主義と不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もトルーマンへの敵意を強めた。その後、マッカーサーは「中国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中国との国境の鴨緑江にまで迫った。
 金日成は、9月30日に中国大使館で開催された中国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を朴憲永*11に託して北京に派遣した。毛沢東は、10月2日に中国共産党中央政治局常務委員会を招集し、中国軍の出兵を主張。政治委員らも、米軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻する恐れがあり、それを阻止するには出兵する必要がある、との考えに傾き、毛沢東の主張通り部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中国の国軍である人民解放軍から組織するが、形式上は義勇兵とした「中国人民志願軍(司令官・彭徳懐*12)」の派遣とした。
 10月10日に約18万人の中国軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。
 当初は「中国との軍事衝突を避けようとする」トルーマンの指示通り、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとしたマッカーサーだが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となったが、マッカーサーはその事実を軽視した。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたことがあったが、マッカーサーの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。「仁川上陸作戦の成功」などによるマッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは左遷などマッカーサーの報復を招くだけで無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長のマシュー・リッジウェイ*13は異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった。
 そうした状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍や米国第8軍に奇襲をしかけた。米国第8軍は中国軍に対し大損害を被った。
 11月28日になって、ようやくマッカーサーは第8軍に撤退許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、38度線の後方に撤退した。
第8軍司令官はウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況だった。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1951年1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と「中国との全面戦争」を望まず、作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろした。トルーマンは激怒し、彼のマッカーサーへの幻滅感は増していった。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るよう、指示したが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した。
 ソウルから撤退したリッジウェイであったが、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢としてサンダーボルト作戦を開始し、中国軍の攻勢を押し留めた。1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復は第8軍司令官リッジウェイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるため、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて、リッジウェイには無断で、報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、(部下の行為であることを理由に上司として)名誉を主張してそれを受けたがる」と酷評している。
 トルーマン朝鮮戦争停戦を北朝鮮や中国に呼びかけることとし、1951年3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた(ただし実際の停戦は「トルーマン退任→アイゼンハワー大統領就任(1953年1月)」「スターリン死去(1953年3月)」以降の1953年7月)。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害しようと画策、1951年3月24日に軍司令官としては異例の「国連軍は中国軍を圧倒し、中国の朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」などの「軍事的情勢判断」を発表した。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じてマッカーサーに指示した「公式な意見表明は上級機関の了承を得てから」に反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した。またこの頃になるとイギリスなどの同盟国から、トルーマンマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの国連軍最高司令官からの解任を決意した。1951年4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル*14統合参謀本部議長オマール・ブラッドレー*15らと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施する最も賢明な方法について話し合われた。
 なお、皮肉にもこの頃、マッカーサーの構想「中国への原爆攻撃」を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強していた。これに対抗すべく、トルーマンは1951年4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが独断で中国に原爆投下しないように、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず米国戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている。
 4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に、辞表を提出するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表を叩きつけるようなことはさせない。私が奴を首にしてやるのだ」とブラッドレーに言ったという。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由はトルーマンの指示「公式な意見表明は上級機関の了承を得てから」を無視し政治的発言を繰り返した「シビリアン・コントロール違反」であった。後任にはリッジウェイが任命された。
 1951年5月3日から、マッカーサーは上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマン民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンマッカーサーによる1950年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと思う、などとは自分は一度も言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している。この記事により、トルーマン政権側はマッカーサーに対して攻勢に転じた。
 1951年9月にサンフランシスコで日本との講和条約が締結されたが、その式典にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーに冷淡であり、フランクリン・ルーズべルト大統領の政治顧問だったバーナード・バルークはマッカーサーにも式典への招待状を送るよう、強く進言したが、ディーン・アチソン国務長官が拒否している。首席全権であった吉田茂首相が、マッカーサーと面談し平和条約について感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省から「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。
 なお、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、1952年の大統領選挙*16出馬(再選)を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている。
【人物評】
 ルーズベルト大統領は「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない」とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしていなかった。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった。
 国連軍最高司令官更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立したトルーマン大統領の評価はもっと辛辣で、大統領就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれ屋を、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトマッカーサーをみすみす救国のヒーローにしたてあげたのか、私にはわからない。(ボーガス注:マッカーサーのフィリピン脱出後もフィリピンに残って対日戦争を指揮したが結局降伏した)ウェインライトこそが真の将軍、戦う男だった」と否定的な評価をしていた。トルーマンマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなかった。
 一方で、マッカーサートルーマンを最後まで毛嫌いしていた。更迭された直後は「あの男には私を首にする勇気があった。だから好きだよ」と知り合いに語るなど寛容な態度で余裕も見せていたが、トルーマン回顧録で、朝鮮戦争初期の失態はマッカーサーの責任であると非難されているのを知ると激怒して、ライフ誌上で反論を行い、非公式の場では「卑しいチビの道化師、根っからの嘘つき」と汚い言葉で罵倒していた。
 朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍最高司令官となったリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「論理的な思考を無視して何かに固執する、強情な性質」と分析していた。
【エピソード】
マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという考えはなく、この点では部下がいくらでも名声を得るのに任せたとされるアイゼンハワーと対照的だった。例えば、マッカーサーの配下で、ルソン島の戦い、レイテ島の戦いを指揮したロバート・アイケルバーガー第8軍司令官(大将)が、雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦詳報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きたガラガラヘビを入れてもらった方がまだましだ」と部下の広報士官に語ったという。
アイゼンハワー*17は、マッカーサーの側近として長年働きながら、彼の崇拝者にならなかった数少ない例外である。アイゼンハワーマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーが雑誌「リテラリー・ダイジェスト」の選挙予想記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ大統領選挙ルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーが逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。
 また1938年1月に「フィリピン軍軍事顧問」マッカーサーがマニラで大規模な軍事パレードを計画した際に、それを知ったケソン大統領が、自分の許可なしに計画を進めたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーら部下に責任を転嫁したこともアイゼンハワーマッカーサーへの不信を強めた(むしろ、アイゼンハワーは、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーに反対したがマッカーサーが聞き入れなかった)。アイゼンハワーは後にこれらの事件について「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している。
朝鮮戦争の指揮を任された総司令官であるにもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで、必ず夜には日本に戻っていた。その為に戦場の様子を十分に把握することができず、中国義勇軍参戦による苦戦の大きな要因となったとされる。

【参考:中国の参戦を予想してなかった米国】

朝鮮戦争 - Wikipedia参照
 インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは1950年10月2日の深夜に周恩来首相の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリ国務省にも届いたが、国務長官ディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかった。

【参考:朝鮮戦争と国連軍】

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第6巻を語る(下)/スターリン、朝鮮戦争の真相を語る2016.4.5
不破
 1月13日には、中国の国連代表権を認めないことへの抗議を理由にして、国連安全保障理事会のボイコットを始めます。続いて、1月30日、北朝鮮金日成に対して、これまでの「南進」抑制の態度を変えて、「南進」の準備開始を許可する指示をだします。
 ここで問題になるのは国連安保理のボイコットです。抗議の欠席なら短期間で終わるのが普通ですが、ソ連はボイコットを朝鮮戦争開始の時期まで続けました。ソ連が欠席していたために、朝鮮戦争が始まった時、米軍を「国連軍」として派遣する決議などがアメリカの思うままに安保理を通過しました。自分たちに不利になることがわかっていて、なぜそんな態度をとったのか。ずっと謎となっていた問題でした。
 50年8月、この疑問をスターリンに手紙で直接ただしたのがチェコスロバキア大統領のゴトワルト*18でした。
 スターリンは8月27日付の手紙でそれに答え、ボイコットは、「米国政府にフリーハンドを与え…さらなる愚行をおこなう機会を提供」するため意識的に取った行動だと説明し、朝鮮戦争への参加によって「米国が現在ヨーロッパから極東にそらされていることは明らか」、そのことは「国際的なパワーバランスからいって…われわれに利益を与えている」、「米国はこの戦いで疲弊してしまうだろう」と書いているのです。
 初めてこの手紙を読んだときは、ここまで言っていたのかとびっくりしました。

 朝鮮戦争ソ連が「拒否権発動」で国連軍成立を阻止しなかったことは一つの謎ではありました(勿論、国連軍が成立しなくても米国は軍事介入したでしょうが、国連軍の肩書きがない方がソ連、中国、北朝鮮にとっては有利)。
 これについて上記の不破説「米国を朝鮮戦争に参戦させることで、ソ連の東欧支配を有利にする」はなかなか興味深い指摘かと思います。中国や北朝鮮スターリンのこうした態度には内心不愉快千万だったでしょう。

*1:東京大学専任講師。著書『軍事大国ロシア』(2016年、作品社)、『プーチンの国家戦略』(2016年、東京堂出版)、『現代ロシアの軍事戦略』(2021年、ちくま新書)、『ロシア点描:まちかどから見るプーチン帝国の素顔』(2022年、PHP研究所)など

*2:勿論プーチンが自らの戦争を「正当な行為」と宣伝してるにせよ、それを「征伐」と表現することが妥当かどうかは議論の余地があるでしょう。例えば「ブッシュ米国のアフガン戦争やイラク戦争」「ソ連のアフガン侵攻」(これらも勿論、正当な戦争と宣伝された)を「アフガン征伐、イラク征伐(ブッシュ米国)」「アフガン征伐(ソ連の立場)」と呼んでいいのかは争いの余地があるでしょう。

*3:源頼朝が「征夷大将軍」職を求めたのは「頼朝に服属しない奥州藤原氏を討伐する大義名分」が欲しかったからでそれなりに実質的意味があった(単に征夷大将軍という役職が地位が高いから求めたわけではない)という説があります。

*4:東北大学名誉教授。著書『百姓申状と起請文の世界』(1986年、東京大学出版会)、『中世武士団の自己認識』(1998年、三弥井選書)、『都市平泉の遺産』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『北日本中世社会史論』(2005年、吉川弘文館)、『藤原秀衡』(2016年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『中世奥羽の自己認識』(2021年、三弥井選書) など

*5:後北条氏研究の著書が多い。著書『百姓から見た戦国大名』(2006年、ちくま新書)、『戦国大名:政策・統治・戦争』(2014年、平凡社新書)、『真田信之』、『羽柴を名乗った人々』(以上、2016年、角川選書)、『井伊直虎の真実』(2017年、角川選書)、『関東戦国史:北条VS上杉55年戦争の真実』、『戦国大名の危機管理』(以上、2017年、角川ソフィア文庫)、『北条氏政』(2018年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『戦国大名・伊勢宗瑞』(2019年、角川選書)、『戦国北条五代』(2019年、星海社新書)、『戦国大名北条氏直』(2020年、角川選書)、『戦国北条家の判子行政』(2020年、平凡社新書)、『北条氏綱』(2020年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『戦国関東覇権史:北条氏康の家臣団』(2021年、角川ソフィア文庫)、『下剋上』(2021年、講談社現代新書)、『国衆:戦国時代のもう一つの主役』(2022年、平凡社新書)など(黒田基樹 - Wikipedia参照)

*6:米国陸軍参謀総長、米国極東陸軍司令官、連合国軍南西太平洋方面総司令官、連合国軍最高司令官、(朝鮮戦争の)国連軍最高司令官など歴任

*7:アイゼンハワー政権で国務長官

*8:韓国大使、アイスランド大使、グアテマラ大使を歴任

*9:シンガポール総領事、駐日大使、インドネシア大使、チェコスロヴァキア大使を歴任

*10:但し、この作戦自体はかなり博打的な物で「ブラッドレー統合参謀本部議長、シャーマン海軍作戦部長、コリンズ陸軍参謀総長らは反対」していました(仁川上陸作戦 - Wikipedia参照)

*11:1900~1956年。北朝鮮での副首相兼外相を務めるが後に金日成によって粛清された(朴憲永 - Wikipedia参照)

*12:1898~1974年。中国人民志願軍司令官、国防相などを歴任するが、1959年の廬山会議で大躍進を批判したことで毛沢東の逆鱗に触れ失脚。文革中は迫害の中、ガン死(ろくに治療もされなかったとされる)。1978年に名誉回復

*13:連合国軍最高司令官、(朝鮮戦争の)国連軍最高司令官、NATO軍最高司令官、米国陸軍参謀総長など歴任

*14:陸軍参謀総長トルーマン政権国務長官、国防長官など歴任。1953年にマーシャル・プランの立案・実行によってノーベル平和賞を受賞

*15:陸軍参謀総長統合参謀本部議長など歴任

*16:この選挙では共和党アイゼンハワーが当選

*17:連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長NATO軍最高司令官、大統領など歴任

*18:1896~1953年。チェコスロバキア共産党書記長長、副首相、首相、大統領を歴任(クレメント・ゴットワルト - Wikipedia参照)

珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年6/25日分)

横田夫妻とウンギョンさんの写真公開の真実2 - 高世仁のジャーナルな日々
 珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年6/24日分) - bogus-simotukareのブログで触れた横田夫妻とウンギョンさんの写真公開の真実 - 高世仁のジャーナルな日々の続きです。

 「拉致問題がどうなっているのかが見えず悶々としていたが、今回の出版でよくわかった」との声がたくさん寄せられている。

 蓮池『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(2015年、講談社)で既に「有田氏や高世が言ってるようなこと」は指摘されてるので「何を今更。高世はどや顔してるんじゃねえよ、バカ」です。

 「救う会」、「家族会」、内閣の三位一体のもたれあいが政府に不作為=外交努力をサボらせることを招いている構造に切り込まないメディアの責任は大きい。

 自分も過去には「そうしたメディアの一員だった」「横田夫妻から還暦祝いを受けるほどけじめがなかった(例えば有田芳生氏の拉致問題についての本が発売され、その解説を高世仁が担当するとのこと - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)」癖に良くも言ったもんです。
 なお、今回、高世が語る「写真公開の真実」とは予想通り

珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年6/24日分) - bogus-simotukareのブログ
 「有田氏が文春に提供した写真は勿論、横田夫妻から有田氏が提供を受けた物だし、文春に写真掲載することも事前に有田氏から説明を受けて了解していた」のに「救う会、家族会の有田批判」に結局、横田夫妻が同調し「有田氏を裏切った」という話

でした。まあ、こんなことは有田本や高世記事など読まなくても「常識で考えて分かる話」ですが。

 西岡氏の発言を追っていくと、モンゴルでの横田夫妻の孫娘一家との面会を喜んでいない本音が露骨に現れている。
 「北朝鮮側はこの写真を有田先生*1に渡して、何らかの意図があるわけですね。それを公開してもらう。横田家は満足してると、こんなにニコニコしてると、良かったねと。(百田氏の「プロパガンダに使われたんやね」との発言を受けて)という風に思われるんじゃないか」。
 (ボーガス注:孫である)ウンギョンさんや(ボーガス注:ウンギョンさんの娘である)ひ孫と会って「ニコニコ」したら「(北朝鮮の)プロパガンダ」になる(!)というのだ。どうやら西岡氏らからすれば、横田夫妻は孫娘一家と初めて面会しても喜んではいけないらしい。

 予想通りの西岡発言ですが、であるのならば「何故あった!」と横田夫妻を非難してしかるべきでしょう。
 それができないのだから全く矛盾しています。
 まあ矛盾してるのはこんな西岡と付き合い続け「ウンギョンさんとの面会を一度で辞めた」横田夫妻も同じですが。

 モンゴルでの面会が2か月後の14年5月の「ストックホルム合意」への伏線となり、拉致問題をむしろ進展させる結果になったこともあらためて付け加えたい。

 前も書きましたが俺的には「そういうことはどうでもいい」。
 極論すれば「拉致解決に逆行しようとも*2」、祖父母は孫と会うべきです。当たり前の話でしょう。
 「拉致解決に逆行するから会うな」とはどれほど冷酷なのか。
 そして前も書きましたが、「俺とほとんど同じ主張」は「奥歯に物が挟まった文章」とはいえ、「米村敏朗氏(元警視総監、元内閣危機管理監)」が2010年(今から12年前)に書いています。勿論「警察官僚」、それも「警察庁警備局外事課長、警視庁公安部長、警察庁警備局長を歴任した元公安」の彼が北朝鮮シンパのわけもない(米村文章については例えば人間考えることはそんなに異ならないらしい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)参照)。
 つまりは高世だって「腹をくくれば」2010年時点で米村氏レベルの家族会、救う会批判は「書けたはず」です。まさか「米村氏が2010年に気づいたことを当時の僕は気づかなかったんです(高世)」ではないでしょう。単に「高世に勇気がなかった」だけです。
 なお、人間考えることはそんなに異ならないらしい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)(2010.10.18)で「ボーガスさんの家族会、救う会批判に賛同する(俺の要約)」という「お褒めの言葉(それ以前、そんなお褒めの言葉は多分誰からももらってない)」に感激したことが今に至るまで、こうした「救う会、家族会批判」記事を書くことにつながっています。
 正直「書きたいから書いてるけど、無名人の俺の文章なんてほとんど誰も読んでないんだろうなあ」と思っていたので「非常に感激した」。
 一方でid:kojitakenは「サディスト」などと俺を悪口するわけでまあ、「世の中はいろいろ」ですね。
 なお、米村文章は

【魚拓】【物来順応】前警視総監・米村敏朗 「レオニー」に思う拉致事件 - MSN産経ニュース2010.10.16
 この秋公開の映画「レオニー」の試写会に行った。世界的な彫刻家イサム・ノグチの母、レオニー・ギルモアの生涯を描いた松井久子監督の映画である。
 イサム・ノグチについては、ご承知の方も多い*3と思うが1904年ロサンゼルス生まれ。父は日本人の詩人、野口米次郎。3歳の時、母レオニーとともに日本に渡り、幼少期の11年間を日本で過ごした。今から約100年前のことだ。
 正直言って、松井久子監督(以下、松井さん*4と呼ばせていただくこととしたい)のことは全く知らなかった。きっかけは、試写会の1カ月ほど前、「レオニー」完成まで7年に及んだ松井さんのプロダクション・ノート的な講演を聞いたことだった。
 その折、松井さんにレオニー役の英国人女優エミリー・モーティマーについて「とてもいい女優ですね」と申し上げたところ、「警視総監をしていた人がエミリー・モーティマー知っているなんて」とひどく驚かれた*5

という書き出しで俺は最初は「はあ?。レオニー?。イサム・ノグチ?(レオニーの息子)。エミリー・モーティマー?(レオニー役の女優)。拉致と関係ねえじゃん。何が言いたいんだ、このオジさん?」と思いながら読んでました。
 最後まで読んで

【魚拓】【物来順応】前警視総監・米村敏朗 「レオニー」に思う拉致事件 - MSN産経ニュース2010.10.16
 「レオニー」を見て、(ボーガス注:『母レオニーの息子・イサムへの愛』からの連想で?)北朝鮮による一連の拉致問題に思いが及んだ。
 一連の拉致問題についていつも思うことだが、どうしてこれほどまでに複雑に扱われなければならないのか。人として、親としてもう一度わが子を、わが肉親を(ボーガス注:レオニーが息子イサムを抱きしめた(?)ように、横田夫妻も孫を)抱きしめたい。ただそれだけのことではないか。
 (ボーガス注:孫を使って横田夫妻を懐柔しようとしているに違いない)北朝鮮を相手に「お前はなんと甘いことか」という向きもあろう。
 しかし何事にしても(ボーガス注:「横田夫妻救う会や家族会に従うべきだ」「北朝鮮の政治工作に乗せられるな」などという?)既成概念が優先し、またそれがあらゆる意味で桎梏となっているように思う。その前に(ボーガス注:横田夫妻が孫に会うという)人として当たり前のことが当たり前に行われることである。

というその主張(奥歯に物が挟まったわかりにくい表現だが明らかに「横田夫妻は孫に会うべきだ」と主張している)に大いに共感しましたが。
 こういう書き出しでない平凡な文章だったらむしろ読まなかったかもしれない。

*1:「先生」と呼んでも「先生と呼ばれるほどのバカじゃない(川柳)」的なニュアンスであり、有田氏に対して西岡が「何の敬意もない」のには呆れます。それだったら「氏」「さん」といった普通の敬称でいいでしょうに。

*2:まあ逆行することがあるとは思いませんが

*3:俺は無知なので「ご承知ではなかった」ですが。

*4:松井というとどうしても最近は「大阪維新のクズ市長」を連想してしまいますね。勿論俺はあんな奴に「さん」などつけませんが

*5:俺個人はこの米村文章に当時「奥歯に物の挟まった分かりづらい文章」とはいえ、『警視総監をしていた人が北朝鮮を利する」と攻撃されかねない救う会、家族会批判をするなんて』とひどく驚いた。米村氏の文章が理解できなかったのか、これを掲載した産経にも驚きましたが。

kojitaken記事にコメント(2022年6月24日分)

参院選東京選挙区、朝日の序盤情勢調査で山本太郎が「やや優勢」の4番手、山添拓は海老沢由紀と最後の1議席を激しく争う - kojitakenの日記
「自公、改選過半数上回る勢い、維新は倍増視野 朝日序盤情勢調査」 - kojitakenの日記
 以前から危惧されていたところですが、kojitakenによれば「山本太郎にバカな期待をする一部のアホな野党支持層」によって「山添氏の票が食われ落選する*1」という懸念が出てきた*2ようです。何とか下位でいいので当選してほしいところです。しかしid:kojitakenとは「意見の違いが大きい(というか既に険悪な関係性)」ですが「れいわ評価」については俺も「kojitaken同様」に「山本太郎は迷惑な存在でしかない」と思っています。
 それにしても「序盤」とはいえ朝日予想も「上限と下限の差が3議席」の公明を除けば「自民10議席」「立民10議席」などあまりにも幅が大きく「何だかなあ」ですね。
 ただしkojitakenも触れるように「上限ですら改選議席割れ」という立民はもはや「泉執行部退陣」は避けられないのではないか。
 最大野党のていたらくにはげんなりします。
 なお、維新が大阪以外でも議席獲得しそうなのはkojitaken同様、俺も「頭が痛い」ですが、一方で「衆院選ほどの躍進はない」ようで、勿論「すぐには滅びない」にせよ、「俺の願望込み」ですが、次第次第に維新も力を落としていくのではないか(勿論、維新が一日も早く衰退するように批判を強める必要があるのは言うまでもありません)。
 結局のところ「自民との違いを大きく打ち出せない政党=維新」の限界と言うことではないか。まあ俺的には「核共有などと言わないだけ」岸田の方が維新よりまだマシではありますね(「トランプに比べたらブッシュの方がまし」的な話に過ぎませんが)。


「ヤクルト1000」の馬鹿売れとスワローズの快進撃 - kojitakenの日記

 「ヤクルト1000」は、個人的にはあまり良いネーミングとは思えない。なぜなら、1000は1001、つまり故星野仙一に一歩及ばないかのような縁起の悪さを感じるからだ。

 既に故人(2018年死去)であり、プロ野球界において「それほどの影響力が現在あるとも思えない星野」を随分と嫌う物だ*3と苦笑しました。「ヤクルト1000」から普通そういう連想はしないでしょう。

【参考:星野の暴力体質】

星野仙一 - Wikipedia
◆2000年5月6日、横浜ベイスターズ戦で、バッター立浪和義が自身への投球をストライクと判定されたことへの不満から球審を務めていた橘高淳を両手で突いて退場処分となり、立浪の退場が宣告された直後に星野は橘高に暴行を働き退場処分を受けた。この件では二人のほか、橘高を殴った大西崇之も退場処分となり、後日星野・立浪・大西に対し、第三者から傷害容疑での異例の刑事告発刑事告発は誰でもできる)がなされた。しかし、橘髙本人から刑事告発がされていないこと、『セリーグから、星野には5日間の出場停止と50万円の罰金、立浪に5日間の出場停止処分、大西に10日間の出場停止と10万円の罰金がそれぞれ科されたこと』から起訴猶予処分となった。
◆星野は、著書の中で「自らの本心を隠したり抑えたりできないのは、私の短所でもあるが、少なくともスポーツマンの世界で発揚する理想だと考えている。時には怒鳴り上げ、壁を蹴り、灰皿を投げ付けて怒る。私くらい怒っていることが周囲に丸分かりの監督もいないだろう」と記している。
中尾孝義は後に「(中日の第一次星野監督時代では)鉄拳制裁を受けなかった日を数えた方が早かった」と語っている。山本昌は「第一次星野監督時代に抜擢された若手で鉄拳を浴びていないのはおそらく立浪和義ぐらいではないか」と著書に記している。
◆中日監督時代は緩慢なプレーをした選手を殴っており、中村武志はほとんど毎日のように殴られ、小島弘務は血だらけになった口元をタオルで押さえていたこともあったという。山本昌はテレビ番組に出演した際に、巨人の井上真二からホームランを2本も打たれたことに激怒した星野から「お前、名前も知らん選手にホームラン打たれやがって」と激しく殴られ、顔が腫れ過ぎたため降板したことがあるというエピソードを披露している。
マーティ・キーナートは2001年12月の記事で「1997年のシーズン中、中日の投手が2回連続でリリーフに失敗し、星野に顔面を殴られて3針縫うほどの怪我を負わされた。これに対し、以前から星野の『鉄拳制裁』に不満を持っていたアロンゾ・パウエルは憤慨し、翌日、星野に対し『自分がそんなに強いと思うなら、私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたの方だぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ!』と直接抗議したが、その後は試合に出されなくなった」「パウエルは近年の中日が優勝できない理由について、『星野の暴力行為に選手たちが萎縮しているからだ』と指摘している」と述べている。ただし、パウエル本人は2016年に『日刊スポーツ』記者からの取材に対し、星野と対立したと伝わっていることについて「皆からそう聞かれるんだよ。本当に正直に言うけれど、対立したことなど全くなかった」と笑いながら答えたという。
◆中日監督時代、鉄拳制裁を行っている事が判明した当初は多くの記者がその事を記事にするか迷っていたがサンケイスポーツの記者が鉄拳制裁の事も含めた星野批判記事を書き、それを知った星野が記者を呼びつけ「これはどういうことだ?」と問い詰めた。こうして、星野を批判する記事を書いた記者は呼びつけられ「これは何だ」と問い詰められた。星野と親交のあった江本孟紀が星野の事を書いた本を出す事になり、星野がそれを知ると電話で「本当にそれ出すんか?」と問い詰めたという。これらの件に関して江本は「自分に批判的な人間には星野さんらしい方法で沈黙させた」と語っている。

*1:勿論、山本も「山添の票を奪ってでも当選する」という考えでしょう。許しがたい利敵行為です。

*2:なお、それでもkojitakenが「山添」ではなく社民に投票する気らしいことには「どれほど反共主義なのか?」と絶句ですね。「非常識な反共主義」という点ではkojitakenもれいわ新選組支持者も俺的には大して変わりません。またid:kojitakenが「秋葉忠利氏を持ち上げる一方で福島瑞穂氏に悪口する理由」も奴がまともに説明しないこともあって全く意味不明です。

*3:若いころの星野仙一って、あいつに似ている(と思った) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)星野仙一 - Wikipediaが指摘する「星野の暴力体質」を嫌ってるのでしょうが。

珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年6/24日分)

横田夫妻とウンギョンさんの写真公開の真実 - 高世仁のジャーナルな日々
 「写真公開の真実」というタイトルですが、今回は「写真公開についての西岡・救う会会長の有田非難は事実に反する」とするだけで「真実」とやらが詳しく説明されるわけではありません。それは(つづく)だそうです。
 おそらく高世の言う「真実」とは「有田氏が文春に提供した写真は勿論、横田夫妻から有田氏が提供を受けた物だし、文春に写真掲載することも事前に有田氏から説明を受けて了解していた」のに「救う会、家族会の有田批判」に結局、横田夫妻が同調し「有田氏を裏切った」という話でしょうが。しかし「そこまで家族会や救う会から非難されるのが嫌」なのか。
 これが「勤務してる会社(横田滋の場合だと日銀)から首になる(左遷される)」「住んでる地域社会(横田夫妻の場合だと新潟や神奈川県川崎市)にいられなくなる(いわゆる村八分)」「配偶者、親兄弟など親族との関係が最悪になる*1」ならまだわかりますが、「救う会や家族会」とは「排除されたら生きていられない」と横田夫妻が思うほどの存在なのか。

 6月23日は沖縄戦戦没者を悼む「慰霊の日」。

 何故6/23かといえばこの日、現地軍最高幹部である牛島満第32軍司令官、長勇第32軍参謀長が自決し「日本軍の組織的な戦闘が終わったから」です。とはいえ牛島らの自決後も「沖縄戦の悲劇」は続いたのですが。
 なお、

沖縄戦 - Wikipedia
 鈴木貫太郎*2首相は沖縄戦で勝機を掴む事を期待し、4月26日には首相官邸に陸海軍首脳部を召集し「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる。沖縄の戦に勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしていた

ということで何と当初は愚劣にも「沖縄戦での反転攻勢」を放言していた日本政府首脳ですが敗色が濃厚になると「6/23の牛島らの自決以前」から

沖縄戦 - Wikipedia
 昭和天皇は、6月9日に木戸幸一*3内大臣が上奏した「ソ連を仲介とした講和工作」を了承した。

ということで「沖縄戦での反転攻勢失敗→降伏必至」の考えに傾いていきます。それでも昭和天皇の考えは「ソ連を仲介役にした条件降伏」であり「無条件降伏」を決意するのは「8/9のソ連対日参戦」の後でした。
 ちなみに、牛島司令官はともかく長参謀長は

長勇 - Wikipedia
◆1930年(昭和5年)に橋本欣五郎らと桜会を結成。1931年(昭和6年)の十月事件(荒木貞夫*4陸軍中将(当時)を首相とするクーデター計画)に関与。事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し、若槻*5首相以下、全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている(但し、長ら10月事件関係者は軽い罰にとどまり、このことが1932年の515事件(犬養首相暗殺)、1935年の永田鉄山陸軍省軍務局長暗殺、1936年の226事件などの青年将校の右翼テロを助長したとされる)
◆1937年(昭和12年)12月、南京攻略戦に参加。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った中支派遣軍司令官の松井石根大将にたしなめられたという逸話がある。
◆1944年、沖縄県に配備された兵による強姦事件が発生した際、県当局の抗議に対し、第32軍参謀長の長は「こうした騒ぎが起きるのは慰安所がないからである」として、慰安所の設置を提案したが、県当局に拒否されている。

ということで「いろいろと常軌を逸した逸話を持つ、あまり、お付き合いしたくない御仁」です。

 有田芳生北朝鮮 拉致問題~極秘文書から見える真実』(集英社新書)について、「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の西岡力会長が論評したので、紹介したい。
 ネットニュースの「虎ノ門ニュース」6月7日放送で、西岡氏が百田尚樹居島一平*6の両氏*7とともに座談。

 で西岡はウヨ仲間と「有田本に悪口してる」わけですが、その一方で、荒木和博が

田中実さんと金田竜光さん【調査会NEWS3621】(R4.6.20): 荒木和博BLOG
 有田芳生参議院議員立憲民主党)の著書『北朝鮮拉致問題 極秘文書から見える真実』(集英社新書)にもこのことが書かれています。私自身は有田さんとは思想的にはかなり違いがありますし、本書にも意見の異なる部分がいくつもあるのですが、田中さんと金田さんのことについてはその通りだと思います。

として有田本を好評価してるのが興味深い。 
 それにしてもフジテレビならまだしも、「虎ノ門ニュース」で相手が「百田や居島」では社会的影響力は乏しいですね。
 まさか「キー局の番組に出ようと思えば出られるが、あえて虎ノ門ニュース」でもないでしょう。
 もはや西岡ら救う会の政治力も衰退の一途なのでしょう。
 なお、写真の件について言えば、誰が考えても「写真提供者は横田夫妻」でしょうが、それでは有田批判ができないがゆえに「横田夫妻ではない」と強弁する西岡です。「じゃあ誰なんだよ?、日本政府か?」て話ですが。
 とはいえ、横田夫妻が「勿論、我々が写真を提供しました。有田氏は何も悪くない。救う会の有田非難は不当だ」といえば済む話なので、「救う会の有田非難」を容認し「有田氏のはしごを外した横田夫妻」は「最低最悪」といっていい。こんなバカなことをしてれば横田夫妻から「まともな人間が去って行く」のも当然の話です。
 ちなみに西岡に対する有田氏の批判ツイートは以下の通り。

有田芳生
 西岡力救う会」会長は、事情をまったく知らず、横田夫妻に圧力をかけて事実を歪めた張本人です。ここまでひどい人物が「救う会」の責任者であることが拉致問題を解決させないのです。
横田夫妻とウンギョンさんの写真公開の真実 - 高世仁のジャーナルな日々

有田芳生
 「救う会」ツイッター公式アカウントが、西岡デマ発言を報じた虎ノ門ニュースをツイートしている。差別発言を繰り返すDHC会長(ボーガス注:がスポンサー)の当該番組をツイートする「救う会」。しかも西岡発言は完全な虚偽。横田夫妻に恥ずべき圧力を加えた張本人なのだ。

*1:まあ「優柔不断な恐妻家」滋について言えば、「妻との関係が悪くなる(最悪の場合は、離婚)」から救う会、家族会べったりだったのでしょうが早紀江について言えば「あそこまで救う会や家族会にへいこら」は訳が分かりません。

*2:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相など歴任

*3:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*4:犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文相など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*5:大蔵次官、第三次桂、第二次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相、首相を歴任

*6:漫才コンビ米粒写経」のボケ担当。「大本営八俵」名義でピン芸人としても活動(居島一平 - Wikipedia参照)。まあ『ウヨ芸人のワンオブゼム』なのでしょう。俺は「お笑いに興味がない」ので、日本テレビぐるぐるナインティナイン - Wikipediaナインティナイン)、TBS水曜日のダウンタウン - Wikipediaダウンタウン)、バナナマンのせっかくグルメ!! - Wikipediaバナナマン)、フジテレビ志村けんのバカ殿様 - Wikipedia志村けん)、テレビ朝日サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん - Wikipediaサンドウィッチマン)、TBSラジオ爆笑問題の日曜サンデー - Wikipedia爆笑問題)など「キー局の冠番組を持つレベル」の有名お笑い芸人以外はほとんど知らず、この居島も今回初めて知りましたが

*7:対談相手が「島田洋一救う会副会長」「横田拓也・家族会代表」など「拉致被害者救出運動関係者」ではないことが興味深い。

今日の産経ニュースほか(2022年6/24~27日分)

「消費税減税なら年金3割カット」自民・茂木幹事長の“高齢者ドーカツ発言”に批判殺到(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース
 過去において消費税増税が「福祉向上」など招いてないのに良くもこんなことが言えたもんです。


【再考・犯罪被害者】道半ばの支援、改めて考えたい - 産経ニュース

 戦後重視されてきた加害者*1の権利にはまだ及ばない。

 デタラメも大概にしろと心底呆れます。
 拙記事安倍「桜を見る会」にサントリーが酒を無償提供&重信房子釈放(2022年5/29日分)(副題:今日もkojitakenに悪口する) - bogus-simotukareのブログで紹介した

「自分が『テロリスト』と考えたことない」重信元最高幹部の質問回答全文 - 産経ニュース
 時給は、20円90銭で、一年間にやっと約一万二千円貯まりました。一般的に、受刑者の方々が、「刑務所帰り」という厳しい目のある社会の中で、自立して生きていくための資金を持つことが出来ないのです。他の世界の国々の水準に見合う時給であってほしいと思います。再犯率は、それによって大きく下がると思います。

という重信発言を産経はどう思うのか。これのどこが「加害者(受刑囚や元受刑囚)の権利が保障されてる」のか。
 そもそも「被害者の権利」と「加害者の権利」は「被害者による加害者への損害賠償請求」の場合を除けば、バーター関係にはないでしょう。「国による被害者への経済的支援」が貧弱なことは「加害者の権利」云々とは何一つ関係ない。


【岸田政権考】「不愉快だ」 松野官房長官が震えた電話の相手とは… - 産経ニュース

「不愉快だ」
 6月14日夜、怒気を含んだ声が聞こえるや否や、その電話は唐突に切られた。電話の相手は、自身が所属する自民党安倍派(清和政策研究会)の領袖、安倍晋三元首相だった。安倍氏の怒りの原因は、島田和久防衛事務次官を交代させる人事案だった。首相時代、6年以上にわたり秘書官として支えた側近で、現在も近い関係にある。

 有料記事なので途中までしか読めませんが、これだけでも呆れます。内閣の人事権に不当介入するだけでも問題ですが、電話を叩き切ったという松野氏への無礼な態度は何なのか?(呆)。松野氏の方こそ「不愉快だ」と思ったでしょう。まともな人間ならこういう態度をいかに「派閥の子分」とはいえ、官房長官相手には取らない。勿論産経は「安倍批判」の意味でこの発言を紹介したわけではない。
 今の防衛相は「安倍の実弟・岸」なのに何でこうなるのか?。岸が「島田を交代したくないのに首相や官房長官に強要された」と安倍に泣きついたのか。それとも、実は岸自身が「島田交代支持の立場」なのに、実兄・安倍に「何で交代する!」と非難*2されて「交代して何が悪いのか」と言い返せずに「首相や官房長官に交代時期だと言われた(俺が積極的に交代したかったわけではない)」と責任転嫁して逃げたのか。前者なら「すぐに兄貴に泣きつく弱虫」、後者なら「兄貴に非難されると自分の意見がまともに言い返せない弱虫」、どっちにしろ、この一件は「岸の面子を潰しています*3」が、そんなことは安倍にはどうでもいいのでしょう。安倍がまともなら岸に泣きつかても「お前も今は大臣だからきちんと言い返せ、俺が出て行ったら、たとえ方針が変わったとしてもお前が今後『岸さんに話をするより安倍さんに話をした方が早い。岸さんは安倍さんの使い走りみたいなもんだ』と馬鹿にされる」と苦言するでしょうにねえ。


東京・狛江市長に松原氏再選 「ワクチン接種など評価された」 - 産経ニュース
 矢野裕氏(共産党・狛江市議から市長)が市長だった時代を考えると実に残念です。


【主張】沖縄慰霊の日 再び「戦禍」被らぬ決意を - 産経ニュース
 「戦禍」を招いたのは「日本が対米開戦したから(「ロシアのウクライナ侵攻」を例にすればウクライナではなく、ロシアの立場が戦前日本)」ですがウヨの産経なので勿論「戦前日本への反省」はありません。軍拡を叫ぶだけです。
 心底呆れます。「軍拡で国を滅ぼした戦前日本」への反省はないのか?
 「北朝鮮のミサイル開発」を「国民生活を犠牲にしている」と非難していたのは一体何だったのか?

*1:なお「推定無罪」ですので「容疑者、被告人の権利」は必ずしも「加害者の権利」ではありません。

*2:この場合、安倍に泣きついたのは島田次官になるのでしょう。

*3:例えば岸、佐藤兄弟においては「佐藤の依頼で岸が動く場合があった」としても、こんなことはないのではないか。

「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/24日分:荒木和博の巻)

「アメリカなら軍艦を出しても取り返す?」(R4.6.24): 荒木和博BLOG
 5分40秒の動画です。タイトルだけで見る気が失せます(一応見ましたが)。実に馬鹿馬鹿しい。
 何が馬鹿馬鹿しいか。
 第一に荒木は過去にも今回とほとんど同じ

「憲法の制約」と「アメリカなら軍艦」の間: 荒木和博BLOG2015.2.27
米国は助けてくれるのか(R3.12.8): 荒木和博BLOG2021.12.8

を記事にしています。何度同じ事を記事にすれば気が済むのか。
 従って過去にも俺はこの件で荒木批判していたと思いますが、すぐには記事が見つからないので過去記事の紹介はしません。
 第二に「米国と日本と関係ない」「米国ができることでも日本ができないことはできない」。
 例えば「米国などNATO諸国の一部は現在、ウクライナに武器供与」していますが、だからといって「日本も武器供与すべきだ」なんて話にはなりません。
 さすがに現時点では岸田政権はそんな右翼的立場、憲法無視ではありません*1が、ウクライナ支援は「難民支援」などいくらでも「非軍事的支援」がある。
 第三に「米国の過去の歴史から見て明らかにそうした物言いは事実に反する」。
 例えば

【1】プエブロ号事件 - Wikipedia(1968年)や「ワームビア君解放」
【2】ベトナム戦争の捕虜解放
 荒木も触れていますがベトナム戦争の捕虜としては共和党大統領候補にもなったマケインが有名です。
【3】イランアメリカ大使館人質事件 - Wikipedia(1979年)

のいずれも米国は軍事対応ではなく外交で解決しました(【3】だけは「イーグルクロー作戦」という軍事作戦が失敗したというもので、最初から外交方針だったわけではありませんが)。軍事大国「米国」だって「軍事対応」で全て解決してきたわけではない。
 そもそも居場所が分かってる【3】ですら軍事作戦失敗で、外交に切り替えましたが、日本人拉致の場合「居場所が分からない」。
 「居場所が分かる」というのは「軍隊で取り戻す」を実行する上での最低条件です。
 ここで「居場所が分からないなんて自衛隊は無能」と罵倒しても何もどうにもならない(俺は無能だとは思いませんが)。
 そして日本は

北朝鮮ケース】
◆金丸訪朝での第18富士山丸船長帰国(1990年)
◆小泉訪朝での拉致被害者帰国(2002年)
北朝鮮ではないケース】
◆シベリア抑留者帰国
よど号ハイジャック事件(1970年、佐藤内閣:北朝鮮への亡命を認め人質救出)
ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年、福田赳夫内閣:いわゆる超法規的措置(身代金支払い等)で人質救出)
キルギス日本人誘拐事件 - Wikipedia(1999年)
イラク日本人人質事件 - Wikipedia(2003年、小泉内閣
安田純平*2拉致事件(2015年に拉致、2018年に解放)

という「外交での救出」実績が過去にあるわけです(これらの中にはどのような外交が行われたのかよく分からない物もありますが「日本政府の外交ゼロ」はさすがにないでしょう)。
 さて荒木が動画内で「先日、水道橋博士*3と対談しました(拉致について話したと言うだけで具体的な説明は皆無ですが。また、対談したといっても、荒木が参院選でのれいわ支持や、博士支持を打ち出してるわけでもありませんし、そもそも博士の出馬自体に触れていません)」というのには思わず吹き出しました。
 何故吹き出したかと言えば,以前

問題作『北朝鮮 拉致問題』がきょう発売に - 高世仁のジャーナルな日々
 書評*4も出始めた。以下は水道橋博士によるもの。
 有田芳生『北朝鮮 拉致問題 極秘文書から見える真実』を水道橋博士さんが読む。

という記事を読んでいたからです。水道橋博士を「善意の第三者」のように描き出していた高世ですが「博士」はおそらくこの件では「荒木や高世の協力者」なのでしょう。
 高世仁の幼稚なデマ自慢を平然と垂れ流すNHKの馬鹿さとクズぶりに本気であきれ返る - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)が批判する「デマ話」に比べればましでしょうが「醜悪な政治工作」という点で変わりはありません。
 しかし「拉致について何を対談した」のか知りませんが、水道橋博士も良く「特定失踪者デマ」荒木なんかと「対談できる」もんです。

*1:勿論仮に「憲法上の問題がない」としても「武器供与できる」というほど話は単純ではない。「米国など武器供与してる国との関係性」もあります。「米国などが供与してる武器」を供与してもあまり意味がありませんが、とはいえ「諸事情から米国などが供与をためらってる武器」を日本が供与したらウクライナは歓ぶでしょうが、「我々の武器供与が足りないという批判か!」と日本への反発が出かねません。

*2:著書『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(2010年、集英社新書)、『シリア拘束 安田純平の40か月』(2018年、扶桑社)

*3:1962年生まれ。お笑い芸人、作家。1987年に玉袋筋太郎(1967年生まれ)と浅草キッドを結成(2020年に玉袋が所属事務所TAP(旧:オフィス北野)を自主退社する一方、博士はTAPに残留した為、コンビ解散。お互いにフリーとして芸能活動は継続)。2022年参院選にれいわ新選組から出馬。個人サイト水道橋博士公式サイト「博士の異常な入口」 - 博士の異常な入口 | 水道橋博士ポータルサイト浅草キッド名義の著書として『お笑い・男の星座』(2003年、文春文庫)、『お笑い・男の星座2』(2005年、文春文庫)など。水道橋博士名義の著書として『本業』(2008年、文春文庫)、『博士の異常な健康』(2009年、幻冬舎文庫)、『藝人春秋』(2015年、文春文庫)、『藝人春秋2:ハカセより愛をこめて』、『藝人春秋3:死ぬのは奴らだ』(以上、2021年、文春文庫)など (水道橋博士 - Wikipedia参照)

*4:そもそも、有田芳生『北朝鮮 拉致問題 極秘文書から見える真実』を水道橋博士さんが読む。は有田本を刊行した「集英社サイトの宣伝記事」であり、こういうのを「書評と呼んでいいのか」微妙な気もしますが。